1940年(昭和15年)の歴史

大阪学院大学・大阪学院大学短期大学部の
ルーツは関西簿記研究所

旧北区地下町かいわい
この一画に事務所がありました。
天満宮がすぐ近くにある
天神橋筋の商店の青年たちを集めて
授業をした北市民館。(昭和初期の撮影)

初代総長 白井種雄が理想とした企業会計人育成のため、1940年(昭和15年)に創設されたのが、「関西簿記研究所」。大阪市北区「天満の天神さん」で知られる天満宮。その石の鳥居を望む町並みの一軒に看板を掲げました。

所長の白井は、1940年(昭和15年)3月に関西大学法学部法律学科を卒業し、白井種雄計理士事務所を開所したばかり。研究所とはいっても発足当初は所長と事務員の一人だけという私塾に近いものでした。
しかし、目的達成への気概は大きく、この関西簿記研究所こそ、経理専門学校として大阪最古の歴史を綴ることになる関西経理専門学校の前身であり、大阪学院大学の母体でした。

研究所発足の前日には京都と神戸、3日後には大阪で砂糖とマッチの切符制が実施。マッチでいえば一人一日マッチ棒5本に制限されていました。街は木炭自動車が走り、運転手の一酸化炭素中毒が相次いでいる、会計人の養成というにしては、あまりにも過酷な時代の中、その目標は日常を超えた真理の探究であり、未来を見据えての若い芽の育成にありました。

若い商人達に大福帳商売からの脱却を説き、鋭い経営感覚の醸成をたすけなければならないという意思のもと、昼は地下町の事務所で、夜は天神橋筋六丁目の北市民館で、それぞれ簿記の授業が始まりました。天神橋筋商店の青年たちを集めて講義した北市民館は、1921年(大正10年)6月に完成した隣保施設。1918年(大正7年)の米騒動に対応するため集められた米の売却金によって建てられたものでした。鉄筋コンクリート造り四階建てのモダンなビルは全面ツタで覆われていましたが、このツタは当時の淀川善隣館長S・F・モラン氏が「愛の手がツタのように市民の上に伸び、しっかり根を張るように」と贈ったもので、まさに関西簿記研究所の教室にふさわしい建物でした。戦後は北区役所の分室の役割を担っていたが、老朽化したため惜しくも1983年(昭和58年)2月に取り壊されています。

日増しに戦況が悪化するなかでも、白井種雄の向学心は衰えを見せません。関西大学大学院経済学研究科修士課程に入学する一方で、1943年(昭和18年)8月からは大阪市立扇町商業学校教諭の職を務め、曽根崎小学校(現・大阪北小学校) 近くにも教室を開きました。しかし、空襲が激しくなるにつれ、ついに授業を続けることもかなわなくなりました。

地下町の研究所で、白井は愛蔵の専門書を梱包して井戸に入れ、荷物をまとめて翌日には疎開という日、地下町一帯は空襲によって焦土となり、曽根崎の教室もまた灰燼に帰しました。

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