1959年(昭和34年)の歴史

大阪学院大学高等学校開校
ベビーブーム世代が高校の門へ

開校に向けて建設が進む 高等学校校舎
左:新校名となった昭和37年度の学校要覧
中央:第一期生募集の学校要覧
右:現校名となった昭和39年度の募集要項
現校名となった頃の入学式
(フェスティバルホールにて)

1958年(昭和33年)10月17日準学校法人関西経済学院は学校法人に組織変更し、「関西経済学院商業高等学校」を設置。翌1959年(昭和34年)4月1日に白井種雄が校長となり開校しました。

開校の地は、のちに大阪学院大学のキャンパスとなる吹田市大字東五三八番地。阪急電鉄(当時・京阪神急行電鉄)正雀駅、JR(当時・国鉄)岸辺駅から徒歩約5分の至便の環境にありました。この地を選んだ理由は2つあります。まず、吹田市はもちろん北摂地区に実業高校がなかったこと。もう一つの理由は通学の便のよいこと。生徒に無為の時間を消費させることをせず、そのぶん勉学やクラブ活動に注力させたかったためでした。

第一期校舎建設工事は1959年(昭和34年)3月20日に終了し、関西経済学院商業高等学校は府立吹田高校、私立関西大学第一高校に続く吹田市内3つめの高校としてスタートしました。一般の商業課程に経理の実務をプラスしたカリキュラムや女子部を独立させて設置したことなどが関心を呼び、生徒募集も好調でした。第一期生の入学式は吹田市出口町の吹田市民会館大ホールで挙行されました。

1962年(昭和37年)4月から普通科を新設し、校名を関西経済学院高等学校と改め、1963年(昭和38年)4月から校名を大阪学院大学高等学校と名称を変更しています。ちなみに、この年の募集人員は男子部の普通科・商業科とも250人、女子部は両科とも100人でした。ところが前年から入学希望者が急増したため、これに応えることとし、そのため昭和38年度から昭和40年度にかけては入学希望者が各1000人を越える事態となりました。職員室を階段踊り場に移転するなどして教室を増設したのはこの時期です。なお、1964年(昭和39年)9月8日に学校法人大阪学院大学への組織変更が認可されました。

1971年(昭和46年)4月からは女子部を、1973年(昭和48年)4月からは商業科を廃止。1974年(昭和49年)4月、吹田市南正雀三丁目十二番一号の新校舎が完成し、阪急電鉄京都線の線路をはさんで東側に移転しました。

高校では第一期生から第七期生までの卒業式を大阪市北区のフェスティバルホールでおこなっていたため、例年の春の話題となりました。校内での卒業式は1966年(昭和41年)春が最初です。

話題といえば第一期生から続いている修学旅行募金があります。恒例の九州修学旅行の帰途、楽しかった思いでのお礼にと残った小遣い銭を出し合うもの。博多、小倉、門司などの駅で駅長や助役などに手渡し、そのあと各地の社会福祉協議会や朝日新聞厚生文化事業団などにリレーされます。その都度「大阪の高校生のさわやかな善行」として報道されました。

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