TRIZフォーラム: 論文

日本における科学者の責任論の議論の系譜とその課題:
省察に注目した解決策の考察

大河 雅奈 (北陸先端科学技術大学院大学 博士後期課程)

発表: 第3回知識共創フォーラム、2013年 3月2−3日、
北陸先端科学技術大学院大学東京サテライトオフィス (東京都港区)

論文掲載: 『知識共創』 3, pp.W4-1-4-10 (2013年7月26日)
http://www.jaist.ac.jp/fokcs/papers/S_paper_Okawa.pdf

掲載:2013. 8.  4     [同フォーラムの許可を得て掲載]

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編集ノート (中川 徹、2013年 7月30日)

本稿は、最初、3月に「第3回知識共創フォーラム」で発表されたものです。同フォーラムは、北陸先端科学技術大学院大学の教授・研究者の人たちが中心になり、知識・考え方を「共に創る」ための、方法・実践・事例を、発表・議論することを目指しています。発表は、その概要に対して事前の査読があり、一般発表は発表20分で討論20分という形式で、内容の濃い議論がなされていました。その後、各著者の(微)修正ののちに、正式版として、「知識共創フォーラム」のWeb サイト (URL: http://www.jaist.ac.jp/fokcs/) に7月26日に掲載されました。特に本論文には同フォーラムから「奨励賞」が与えられています。

本稿は、2011年の 3.11 東日本大震災と福島原子力発電所事故の後で、大学院の博士課程後期学生である著者(現在、同課程在籍中、日本学術振興会特別研究員DC2)が、「科学者は、そして自分は、何をするべきなのか?」を考えるために、取り組んだものです。「科学者」「責任」「倫理」などのキーワードをタイトルまたはアブストラクトに含む日本語の著書・文献140編余 (実際には200編余り)を読んで、まとめたといいます。私は、大河さんの発表を聞き、その膨大で緻密な作業と真剣な姿勢に、深い感銘を覚えました (末尾掲載のスライド一式を見てください)。若い研究者が、このような社会的なテーマに真剣に取り組み、それをきちんとまとめて発表してくれているのは、実にありがたいことです。

私は、著者の発表後すぐに、『TRIZホームページ』での掲載を願い出て、著者の了解をもらいました。また、「知識共創フォーラム」からも、同フォーラムでの正式版の掲載後を条件に再掲載の許可をいただきました。著者と「知識共創フォーラム」とに厚く感謝いたします。この論文は、本サイト『TRIZホームページ』の基本テーマ「創造的な問題解決の方法」に対しても、その方向付けに貴重な示唆を与えてくれるものと、私は信じています。そして、さらに多くの人たちに伝える一助になることを願っています。

著者の大河雅奈(かな)さん(本年4月に結婚されて、現姓 :有賀雅奈さん)は、自分のブログサイト(『雅堂』、http://largeriver.blog123.fc2.com/ )で、、「「科学」にかかわるイラストレーションやコミュニケーションをテーマに社会学的な研究をしています」という自己紹介しています。また、最近、Webサイト (『雅楽堂(かがくどう)』 、URL: http://www.kana-science.sakura.ne.jp/)を開設し、その趣旨を「雅楽堂は 科学的な内容を説明するための<サイエンティフィック・イラストレーション>に関する様々な情報を提供する非営利目的のウェブサイトです」と書いています。自作の鳥や細胞のイラストなどもあり、大河さんの多才さに驚くばかりです。

本ページに、論文(HTML版 と PDF版)および発表スライドの画像HTML版PDF版を掲載し、英文ページ英文概要をHTMLで掲載します。

 

目次

要約

1.  はじめに

2.  科学者の責任論

2.1  定義とレビューの方法
2.2  内部責任論
2.3  外部責任論
2.4  レビューのまとめと課題

3.  課題解決に向けて: 科学者の価値観・信念への注目

4. 「省察」の科学者の責任論への応用可能性

参考文献

 

論文PDF  

『知識共創』  http://www.jaist.ac.jp/fokcs/

発表スライド 画像HTML版  PDF版

 

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目次

論文の先頭 1.  はじめに

2.  科学者の責任論

3.  課題解決に向けて

4. 「省察」の科学者の責任論への応用可能性

参考文献

論文PDF

スライドの先頭

スライドPDF

『知識共創』

大河雅奈ブログ

英文ページ

 


 論文:     

日本における科学者の責任論の議論の系譜とその課題:
省察に注目した解決策の考察

大河 雅奈 (北陸先端科学技術大学院大学)

発表: 第3回知識共創フォーラム、
2013年 3月2−3日、北陸先端科学技術大学院大学東京サテライトオフィス (東京都港区)

論文掲載: 『知識共創』 3, pp.W4-1-4-10 (2013年7月26日) http://www.jaist.ac.jp/fokcs/papers/S_paper_Okawa.pdf

A Review of Japanese References on Scientists’ Responsibility

OKAWA Kana (Japan Advanced Institute of Science and Technology)

【要約】

本稿は、「科学者」「責任」「倫理」などのキーワードをタイトルまたはアブストラクトに含む日本語の著書・文献140編余をレビューしたものである。(アカデミックな) 科学者の責任論には、職業倫理として「不正を行わない」という内部責任論と、社会に対する科学者の責任を考える外部責任論との、二つの大きな流れがある。時代やテーマに応じてこれらの中にさらにいくつかの系統の議論があるが、それらがばらばらに議論されることが多く、諸系統を繋ぐ議論が少ない。また、社会の影響によって責任の内容や課題が変化しているにも関わらず、その認識が遅れ、制度・教育改革といった科学者の実際的な行動が遅れる傾向がある。本稿では、科学者の行動を促すための方策として、科学者が社会の状況をよりよく把握し、科学者個人およびコミュニティとしての責任を再認識するために「省察」を行う重要性を指摘した。

 

【キーワード】科学者の責任論 科学者の社会的責任 省察

 

1. はじめに

2011年に起きた東日本大震災は、原発問題を中心に、科学者の社会からの信頼のあり方を根底から揺さぶった。このような状況を受け、科学と社会の間の信頼と、今後の科学者のあり方を見いだすために、科学者の責任論の再考が行われている(1)

これまでの科学者の責任論をみると、不正問題を中心とした、科学者の科学者に対する倫理や責任を扱う内部責任と、科学者の社会に対する倫理や責任を扱う外部責任が議論されてきた。これらの二つの責任論は、双方とも科学者が何をすべきか、という規範や責任を論じているにも関わらず、別のものとして認識され、この二つの責任論を統括して今後の対策を論じた研究はあまり多くない。また、二つの責任論について触れている研究や文献であったとしても、どちらか一方の責任論に主眼が置かれることが多く、二つの責任論の先行研究を十分に検討した上で今後の対策が論じられることは、筆者が見る限りきわめて少ない(2)。このため、双方をまたがる課題が見落とされやすい可能性がある。さらに、外部責任論については、いくつかの立場や系譜の議論が存在し、接点や連続性が低いことが指摘されている (藤垣・廣野, 2008;廣重・吉岡, 2012)。過去に現在の問題点と同じ構造が隠れているとするならば、その反省や問題点を踏まえなくては、社会との信頼関係を構築することはできない。

科学者の責任論の再考が進む今、日本における科学者の責任論の歴史的な変化を内部責任・外部責任を通じて検討し、議論するための土台を作ること、またその土台を踏まえて二つの責任論を統括した課題を見出す必要性は高いと考えられる。本稿では内部責任・外部責任の議論をレビューしたうえで、課題を提示し、その解決策を探りたい。

 

2. 科学者の責任論

2.1 定義とレビューの方法

まずは本稿が対象とする「科学者」と「責任」の定義と範囲を簡潔に提示しておきたい。本稿で想定している「科学者」とは、研究と論文生産を主な仕事としている職業科学者であり、なかでも自然科学・工学分野の科学者をさす。これらの科学者は大学、研究所に勤めていることを前提とする。科学者の責任論では、技術者や、企業に勤める研究者を含む場合もあるものの、本稿ではより責任の所在や内容が見えにくい大学や研究所の(いわゆるアカデミック・サイエンスの)「科学者」に限定した。

また、本稿では責任を「なんらかの行動や決定の結果に関し、他者に対する応答として生じる任務」と簡潔に定義する。責任と関連した用語として、倫理・規範・道徳あるいは役割というキーワードもある。これらは科学者の責任の判断基準として提示されることが多いため、これらのキーワードをもつ文献をレビューの範囲に収めた。

本稿では、日本語文献を対象に、「研究者」「科学者」の「責任」「倫理」「規範」「道徳」「役割」というキーワードをタイトル・アブストラクトに含む著書・文献・論文をCiniiやGoogleなどの検索サイトで検索し、文献を収集するとともに、その参照・関連論文を収集した。その結果、本稿の範囲に当てはまるものが140編以上収集された。これらの文献を読み込むことにより、レビューを行った。

なお、関係する分野として技術者を中心とした責任論や倫理がある。これらは科学者の責任論と関連性があり、一部は重複しているものの、歴史的な系譜や扱う範囲が異なる(3) 。本稿では議論の範囲を明確にするため、技術者の倫理は扱わなかった。関連するほかの分野としては、環境倫理や生命倫理などの個別の分野について論じる倫理や責任論もある。これらは「遺伝子組み換え」といった比較的限定されたテーマに結びついて議論が展開されている。本稿では各論に入り込んだ文献は参照せず、あくまで科学者全体の責任論の動向を記述した。

科学者の責任論に関係する議論は、上記の条件による検索以外でも幅広く存在する。タイトルやアブスラクトに上記キーワードを含んでいない場合でも、考察で科学者の規範や責任を論じる文献も多い。しかしながら、そのような論文は幅広く存在し、検索・収集する際の基準を見出すのが困難であった。話題が筆者の主観によって偏ることを避けるため、本稿ではこのような文献は除外した。

 

2.2  内部責任論

前述したように、科学者の責任論は内部責任・外部責任が独立して議論されてきた。まずは内部責任論について、定義や歴史、議論の内容などを見ていく。

内部責任とは、科学者共同体の内部で通用する、科学者の科学者に対する職業倫理のことである。内部責任では、「不正を行わないこと」が科学者の責任であるとされ、不正の現状と対策が議論されてきた。科学者の不正には、アメリカで大きく二つの定義が存在する。ひとつは米国連邦政府や研究公正局の定義であり「ねつ造・偽造・盗用(FFP)」の三つを指している(ステネック, 2005)。ここでいう捏造とはデータや結果のでっち上げであり、改ざんは装置の不正な操作やデータ書き換えや恣意的な無視、盗用はデータやアイデアを、出典を明示せずに引用することである。一方、米国公衆衛生局は「科学の不正行為は、捏造・偽造・盗用、あるいは科学界での研究の申請・実行・報告などの際に一般に受け入れられている共通事項からの著しい逸脱行為を意味する」という表現をとり、広い定義を採用している(山崎, 2002)

日本学術会議では、「ミスコンダクト」を次のように定義している。「捏造(Fabrication)、改ざん(Falsification)、盗用(Plagiarism)(FFP)を中心とした、科学研究の遂行上における非倫理的行為を指している」。不正ではなく「ミスコンダクト」と呼ぶのは、不法性や違法性よりも倫理性を重視し、社会規範からの逸脱行為も視野に入れるためである(日本学術会議, 2005)。このように不正の範囲や言葉使いには、多少のばらつきがある。ただし、どの定義においても、常識的な注意を十分に払ったうえでの過失は不正に含めていない。

ステネック(Steneck)は研究者の行動を「意図的な不正行為」と「責任ある研究活動」にわけ、その間にグレーゾーンが連続的に広がるというモデルを提案している(Steneck, 2006)。このグレーゾーンは、組織や道徳によって判断が割れることのある「疑わしい行動」である。「疑わしい行動」にはデータの恣意的な取捨選択、実験ノートや試料の不適切な扱い、二重投稿・自己剽窃、オーサーシップの不適切な表示、以前発表した内容と異なる研究結果の秘匿、研究費の使用に関する不正、研究の中立性の喪失、知的所有権の侵害、被験者や実験動物の不適切な扱い、環境や人々の健康に影響を及ぼすような行為、各種ハラスメント、新規性の詐称、表現上の不適切性(誇張・レトリックなど)、ガイドライン違反などが含まれている。

上記のような不正は、近代科学の誕生以降しばしば発覚してきた。しかし、社会問題として大きく取り上げられたのは1980年代以降である。きっかけは、1980年代にアメリカの一流の研究機関で不正問題が多数みつかり、マスメディアが報道したことである。アメリカで生じた不正に関する議論は、その後世界に広まった。(ブロード, 2006)

日本で不正が問題化したのは、2000年に起きた旧石器発掘ねつ造問題である。マスメディアによって報道され、大きな問題となった。この前後には原子力発電所の事故や医療ミスが問題になり、生命倫理の問題も議論されるようになった。このような背景のもと、日本の学協会のなかで倫理要綱を制定する組織も少しずつ現れ始めた(科学倫理検討委員会, 2007)。また、日本学術会議が声明を発表し、文部科学省もガイドライン策定を行うなど、統括的な組織のレベルでも対応がとられた(文部科学省, 2006;日本学術会議, 2005;日本学術会議, 2006)。一方で科学者全体への周知や教育への反映は不明瞭で、具体的な対策はみえていない。

では、科学コミュニティは、どのような不正対策をしてきたのか。そもそも科学者の不正の基準となる規範は、17世紀以来、学会といった科学者コミュニティのなかで作られ、伝えられてきた(古谷, 2006)。この規範は暗黙的であったが、20世紀半ばにマートンがその内容の明示化を試みている。マートンの提示したエートスは、公有主義・普遍主義・無私性・独創性・組織的懐疑主義であり、英語の頭文字をとってCUDOSと呼ばれている (マートン, 1961)。一方ザイマンは、科学者の人口が激増し、研究が国家や軍事、あるいは資本主義の経済構造に取り込まれている現代においては、所有的・局所的・権威主義的・請負的・専門的(これらをまとめてPLACEと呼ぶ)という規範のほうがふさわしいとしている(ザイマン, 1995)。しかし、このような指摘があるにも関わらず、科学界のシステムは20世紀前半までに作られた性善説、マートン的エートスを前提とした体制からほとんど変容していない(村松, 2006)

マートンのエートスの維持を可能にしている科学の自浄作用には、1)研究助成などにおける研究プロポーザルの審査、2) 学術誌に投稿された論文の査読、3) ほかの研究者による再現実験(追試)の三つが知られている。科学者の多くは、これらがある限り不正は遅かれ早かれ発覚し、不正なデータは科学の主流から排除されると考えている。

しかしながらこれらの自浄作用には限界がある。まず、ピアレビューの限界があげられる。ピアレビューは上記1)と2)を支える機構である。第一に、審査される論文やプロポーザルの中の、実験・観察結果のデータが真実であるかどうは、その論文だけでは判断できない。第二に、科学の専門分化が進んだところでは、論文の妥当性を判断できる科学者がごく少数、あるいはほとんどいない可能性がある。第三に、論文で提唱された科学的知識が妥当かどうかという基準は、科学者によって異なる。第四に、ピアレビュー時にも不正が生じることがわかっている(山崎, 2007)

また、3)の追試にも限界がある。第一に、追試は最終手段であり、常に行われているものではない (ブロード, 2006)。第二に、巨大科学や大型プロジェクト、高度な情報処理が行われている場合、あるいはそもそも追試を行うことができる同分野の科学者が少ない場合、ヒトの卵子の使用など研究資源の利用が制限されている場合などには、論文発表後数年内に追試することが不可能な場合もある(武田, 2006)。第三に、操作の「こつ」など、文章化されない技能が実験の成否を左右することも多く、追試で結果が再現できないからといって不正が直ちに疑われるわけではない(村松, 2006)。さらには発表される論文数が飛躍的に増大していることも、追試を難しくしていると考えられる。

このように、自浄作用によってマートンのエートスを維持するのは難しい。さらには、科学者個人がもつエートスが、社会的な影響によって維持できなくなることも指摘されている。

たとえば、不正問題の要因として第一に挙げられているのは、競争激化による圧力である(ブロード, 2006;石黒, 2007;文部科学省, 2006など)。第二次世界大戦以降、科学は経済的、軍事的な有用性が認識され、国家の威信として拡大化が図られるようになった。その結果、国や社会からの圧力が増し、研究開発競争が激化している。競争的資金の拡大や研究者の流動性の向上、若い人材のポスト不足などの影響も、競争激化に拍車をかけている。また競争の際の判断基準となる業績評価の方法も問題となっている。科学が巨大化し、分野が細分化した結果、分野外の研究者や政策担当者などが業績を評価したり、研究動向を把握したりすることが難しくなった。このため、論文の数やインパクトファクターを判断基準とすることが増え、論文の競争激化や過剰生産が生じている。過剰生産は厳密な審査を阻害し、二重投稿やオーサーシップ違反、不適切な引用などを誘発する。

不正が生じる要因として、利益相反の問題もあげられている(唐木, 2007など)。利益相反とは「外部との経済的な利益関係等によって、公的研究で必要とされる公正かつ適正な判断が損なわれる、又は損なわれるのではないかと第三者から懸念が表明されかねない事態」をさす。利益相反はもともと企業の研究者で問題となっていた。しかし現代の科学者は科学の産業化を背景に、大学と企業など複数の組織に所属する場合がある。利益確保のため結果の公表を控えるといった、科学のエートスとの齟齬が生じている。

技術の進歩が研究者の日常を変化させ、不正を増やす要因になっているという指摘もある(田島, 2009)。コンピューターの能力の向上と普及、ネットワーク環境の整備により、画像やデータの改変や捏造、論文の盗用が容易になったと言われている。また、実験装置が高度化、複雑化し、データ処理がブラックボックス化したことも、データの妥当性の判断を阻害し、不正を誘発するようになったと言われている。この他にも、研究組織の管理機能不足や、研究者間のコミュニケーションの不足、権力による湾曲、倫理に対する教育体制の不備などが不正の要因として挙げられている。

このように、社会が歴史的に変化してきたなかで、科学者にはこれまでにない影響をうけるようになった。その結果、科学の既存の制度では対応できなくなり、不正問題が多発、社会問題化している。しかしながら科学者の対応は基本的にピアレビューと追試という伝統的な方法に限られている場合が多い。不正の要因の多くを占める社会・制度的な影響に対し、科学者の対応は遅れていると考えられる。

 

2.3 外部責任論

外部責任とは、科学者の社会、あるいは社会の成員に対する責任である。ゆえに科学者の社会的責任とも呼ばれる。社会の成員とは以下に説明するように、納税者や政府、パトロン、一般市民などである。科学者も一市民という考え方もあるものの、社会というときには科学者以外の人々やシステムを指すことが多い。

そもそも科学者は歴史的に見て、科学技術がもたらした害悪についての社会的責任をとることに、積極的ではなかった。科学者は、公害、核兵器など社会に害悪を及ぼした科学に関わる問題が生じたとき、科学は価値中立であると主張し、その利用の結果に対して責任はないとしてきた。しかし科学の中立性に対しては多くの反論がある。たとえば柴谷は次のように述べている。科学者は科学技術のメリット(福祉や有用性)に関しては主張するにもかかわらず、悪用に対しては知らないという。価値中立と言うからには、社会にもたらしたメリットに関しても科学者は何の貢献もないはずである (柴谷, 1973)。また、科学を行う側の関心は、人間の関心に左右される。科学は人間の価値観によって推進され、影響をうける(Mitcham, 2012)。科学的知識の内容が価値中立であったとしても、科学者や科学の進め方は価値中立ではないため、科学がもたらした影響に対して責任がないとはいえない。さらに科学者自らも、社会に対して責任があると述べてき経緯がある。ここでは外部責任の系譜と科学者の主張や対応を見てみたい。

 

現代の科学者の外部責任論のルーツは、第二次世界大戦の核兵器の利用にある。科学は19世紀中ごろ以降、技術開発と結びつき、国家や産業と強く関わるようになった。これは経済界や政府だけが求めたのではない。科学者自身も積極的に国家・産業技術に与える影響を強調してきた。19世紀までとは異なり、科学研究が大型化したため科学者自身のポケットマネーやパトロンの支援だけでは手に負えなくなったのである。このため科学者は国家的意義を強調することによって政府がスポンサーになることを求めた。

そして20世紀に入り、ふたつの世界大戦がはじまると、科学は国家の安全保障の柱として大規模に国家戦略に取り込まれるようになる。科学者らは化学兵器や核兵器などの開発に関わった。科学者らは必ずしもやむを得ず開発に参加したのではない。たとえば、核開発はシラードやアインシュタインといった物理学者らの働きかけで開発が開始された。オッペンハイマーなどの数名の有力な科学者は、原子爆弾の投下について意見を求められた際、反対することはなかった(古川, 2000)。日本の科学者についても「研究生活が続けられさえすれば、いかなる研究でもあえて辞さぬ」という観念に取りつかれ、科学技術動員に協力していた(山崎, 2001)。科学者の社会的責任という考え方がバナールによって打ち出されたのは、この第二次世界大戦の時期(1939)である(バナール, 1981)

科学者らは戦後、自らの仕事がもたらした脅威に直面して反省し、自らの社会的責任を自覚したといわれている。たとえば、オッペンハイマーは戦後核兵器の国際的管理の重要性を訴え、水素爆弾の開発計画に反対している。また、イギリスの哲学者ラッセルは、1955年にアインシュタインや湯川秀樹らとともにラッセル・アインシュタイン宣言を発表し、核兵器廃絶・科学技術の平和利用を訴えた。日本においても世界的な動きに影響を受け、第一回科学者京都会議が開かれた。そこでは科学は人類の福利と平和のために利用されるべきであるとし、核兵器の軍備撤廃を主張している。この第一回〜三回科学者京都会議の声明が、日本における科学者の社会的責任論の原型となった(廣野, 2002)。一方で、学術会議で行われた調査では、一割を超える回答者が第二次世界大戦中が「もっとも自由に研究できた」と答えており、深刻な反省があったのか疑わしいともいわれている(山崎, 2001)。さらに、これらの声明や原爆に対する科学者の反応に関し、罪の意識のなさがみえること、あるいは、技術的適応だけを制御すればよいという科学信仰があることに対して批判もおきた(唐木, 2012)(4)

戦後しばらくの間は、科学者たちは研究体制の民主化や平和運動などの活動を行った。しかし、原爆をルーツとした科学者の責任論は、ごく一部の活動を除き、その後日本で展開を迎えることはなかった(5)

1970年代には別の議論が始まった(石原, 2009)。公害が社会問題化し、科学に対する不信が広がり、「人間のための科学」が強調されるようになったのである。また、遺伝子組み換えといった新しい技術の登場により、予想もできない危険が生じる可能性が指摘されるようになる。1975年にはアメリカで「遺伝子操作をめぐる規制問題に関する国際会議(アシロマ会議)」が開催され、物理的・生物的な封じ込めを行うという、遺伝子組み換えの安全対策に関するガイドラインが策定された。これを受けて日本でもガイドラインが作られている。

1974年、ユネスコは「科学者の地位に関する勧告」 を出した。勧告では、研究・開発の目的や計画を自由に決定し、非人道的、反社会的、反生態学的な研究・開発には反対する責任と権利と、自国に対して社会的に貢献する責任と権利とを明記したうえで、科学者の地位と権利の保障を訴えた。これを受けて1980年、日本学術会議は、「科学者憲章」を発表した(6)。「科学者憲章」では、科学研究を人類の福祉と世界平和に貢献するものとし、科学の無視や乱用と言った危険を排除するよう努力すると述べられている。同時に学問の自由を擁護し、科学の発展と知識の普及を尊重すること、また、科学の国際性を重んじることが記載されている。

1990年代になると、アメリカのヒトゲノム・プロジェクトが始動する。この際、科学プロジェクトの倫理的・法的・社会的問題(ELSI)研究が実施された。これ以降、大規模な科学技術の研究の際に、ELSI研究が実施されるようになった。

1999年にはハンガリーの首都ブダペストで世界科学会議が開かれ、「科学と科学的知識の利用に関する世界宣言」が採択された。背景には、これからの科学は環境問題といった新たな課題の解決に貢献するものでなければ社会の信頼と支持は得られない、という危機感があった。宣言においては21世紀の科学の責務として、「知識のための科学」に加えて、「平和のための科学」、「持続可能な発展のための科学」、「社会のなかの、社会のための科学」という4つの概念を打ち出している。これを受け、日本でも科学技術の社会還元に向けた施策が進められるようになった。

2000年代になると、日本では科学技術社会論学会が設立され、科学技術社会論において科学者の責任論が議論されるようになる。科学技術社会論においては「科学の公共性」が一つの大きな関心事となっており、その枠組みの中で外部責任が語られることが多い。その結果、外部責任は「科学者の説明と対話の責任」が中心的な問題として語られている。今までの外部責任論と整合性がとれているわけではなく、別の系統の議論である(廣野・藤垣, 2008; 廣重・吉岡, 2012)。科学者の外部責任論としては、第一に説明する責任があげられる。また、近年は「市民から問いかけへの呼応責任」(藤垣, 2010)も指摘されるようになった。ここでは大きく分けて二つの議論を紹介したい。

(1) 自らの研究に関する説明と呼応の責任

科学研究は国の公的資金(税金)で賄われている。このため、納税者である国民に対して、研究資金の目的や使途、研究の中身などについて説明報告する必要があるといわれている。これは一般的に科学者の「説明責任」「アカウンタビリティ」と呼ばれる概念である。ただし説明責任は単なる情報発信ではない。国民が納得しなければ資金を要求できない、計画を変更しなくてはならないといった状況が起こりうる。小林は、研究方法や成果が社会で問題となる可能性が大きい場合には科学者コミュニティでの討議に加え、利害関係者を含む科学者以外の人々との議論が必要となるとしている。「研究テーマの設定に関する倫理」も必要とされている(小林(信), 2007)

(2) 専門家としての説明と呼応の責任

科学者は自分の分野の専門家である。それゆえ、科学に精通する者として、科学に関わる様々な問題について解説したり、情報を提供したりすることが求められている。また、科学に関わる危険に気づいた時には注意を促すことも科学者の責任のひとつであると言われている。科学者には科学的でない情報や疑似科学を批判する責任なども挙げられることがある(池内, 2007)

また、近年盛んに議論されるようになったのは、政策決定における科学者の責任論である。これまで政策決定は、科学的・技術的知識に精通した科学者や技術者、あるいは行政官が意思決定を行っていた。しかし、1970年代、ワインバーグは「科学者によって問うことはできるが、科学によって答えることのできない問い」が存在することを提起し(Weinberg, 1972)、科学的に不確実性の高い問題や、判断に価値観が関わる問題などは、民意が必要であるという考え方が広まった(小林(傳),2007)。その結果、科学者には市民参加の討議に協力することが求められるようになった(7)

 

このように、科学技術社会論では、大きく分けて二つの議論がされてきた。3.11以降になると、坂田昌一や唐木順三の本が再販されるなど、戦後の原子力に関わる科学者の動きに対する再注目が進んでいる。また、最近の動きとして、日本学術会議が、2006年に発表した科学者の行動規範を改訂したことである(日本学術会議,2013)。改訂後は「社会的期待に応える研究、科学研究の利用の両義性、公正な研究、社会の中の科学、法令の遵守に関する記述」を加筆した。科学技術社会論での議論や震災が契機となり、科学者の責任論の考え方が科学者コミュニティに浸透し始めていると考えられる。

しかしながら外部責任では、外部責任の遂行が科学者の制度に組み込まれていないことが問題として指摘されてきた(吉岡, 1984;廣野,2002)。科学者が対話や説明をしなかったからといって、罰が与えられることはない。また、責任を果たしたということが評価されることもほとんどない。外部責任に関わる活動の多くは業績として評価されず、業績として掲載されたとしても評価は低い。アシロマ会議でガイドラインを作った例などの少数の例を除けば、科学者の具体的な行動レベルにまで責任論が浸透しているとは言えないと考えられる。

 

2.4 レビューのまとめと課題

内部責任論は「科学者の科学者に対する責任」という定義であるゆえに、科学者内部の問題と考えられる傾向があった。しかしながら、内部責任の阻害要因やニーズを検討すると、社会や時代の影響を大きく受けており、科学内部に閉じた問題ではない。科学者や科学者コミュニティは内部責任の維持を19世紀に確立された内部機構に頼っており、時代の変化に対応しているとは言い難い。

外部責任論は時代の変化に応じていくつかの議論の系譜が別の人々によって語られてきた。アシロマ会議やヒトゲノム研究などの影響を受け、日本でも取り組みが始まっていることから、科学コミュニティにも「社会的責任」に対する意識が広まってきていると考えられる。しかし、過去の反省や議論が、現在の議論ではほとんど踏まえられていない傾向があった。たとえば原子力爆弾と原子力発電の安全利用の議論は、本来は共通点や連続性があり(鈴木, 2008)、過去の議論を踏まえた責任論を再考する必要がある。

これまでの責任論の総体をみたとき、内部責任論と外部責任論は別々に語られる傾向があり、相互に参照されることはごく一部の論文をのぞいてはほとんどみられなかった。この二つの責任論を通じた課題は、どちらの責任論も社会の変化の影響を受け、責任論の内容や対応策が変化していたにも関わらず、制度改革や教育改革を行うといった、実行策を取ることが少ないことである。社会からのフィードバックを受け、対応策を議論したり、宣言を発表することはあっても、科学者自身が制度や教育改革を提案・実行することは少ないようにみうけられる。 もちろん、組織や政府の方針と異なる科学者の行動は、権力によって封じられてしまう可能性や、記録に残りにくい可能性があるため、科学者の行動が本当になかったのかどうかを判断することはレビューのみでは難しい。しかし現状を見る限りは、対策は遅れているようにみえる。

責任論の系譜が別々に語られる弊害として、内部・外部にまたがる論点が落ちやすいことも指摘できる。たとえば、社会からの要請を受けて、研究者の評価方法や研究規範を変革する必要性である。研究者の評価は、論文や発表と言った研究業績や同僚評価が基本であり、内部に閉じる傾向がある。しかし、ニーズに基づいたプロジェクト型研究など、科学者以外のアクターが求める研究については、ピアレビューよりもそれらのアクターの評価の方が重要である。また、近年一般化している、企業との共同研究の際の規範も考える必要がある。秘密主義によって研究が業績に反映できない場合、研究者をどう評価すべきか、そこでは科学者にどんな規範が求められるのか、考える必要があるだろう。

また、科学技術の責任論や倫理は、対象、方法論、成果物の点においてトランス・ディシプリナリティーな特色を持つ(札野, 2002)。本稿で設定したキーワードに当てはまらない研究にも、責任論と関連する研究が多様に存在すると考えられる。また、本稿でのレビューの対象はマクロな科学者コミュニティ論である。ここでいうマクロとは、科学技術と社会の関係性を扱うレベルである(8)。しかし、本来はメソ・ミクロレベルの研究も含めて議論する必要がある。どのようにして関連分野の議論を探し出し、多様なアプローチを責任論の議論に組み入れていくかということも、考える必要がある。

 

3. 課題解決に向けて:科学者の価値観・信念への注目

上記のように、科学者の責任論にはいくつもの課題がみられた。独立している議論を統合するための解決策としては、まずは相互の議論を知る必要がある。そして、レビュー等によって議論の土台を作ったうえで、「科学者の責任論」という分野に、様々な分野の知見を統合する仕組みを作る必要がある。これについては科学者の行動規範について議論を続けている日本学術会議や、科学者の外部責任の議論を行っている科学技術社会論、あるいはそれぞれの分野の学会といった主導的な組織が、議論を継続的に行う場をつくることが重要であると考えられる。

さらに、議論を行ったうえで、制度や教育改革を実行することも重要である。先行研究においても、科学者が責任を果たすための方策として制度改革、倫理教育の必要性が挙げられてきた(吉岡, 1984;廣野, 2002)。しかし、レビュー結果からは、科学者自身が制度や教育などの具体策をとることが少ないことが示唆される。本稿では、以降で科学者が具体的行動をとるための解決策を考察したい。

科学者が日々変化する社会の価値観やニーズを把握し、責任を果たす行動をとるためには、第一に社会の状況を把握する必要があるだろう。実際、科学技術社会論では、研究者の社会リテラシーを向上する重要性も指摘されてきた。つまり、科学者はまず社会についての知識を身に付け、そのうえで学会などのレベルで対応を協議し、制度改革などのメソレベルの対策を行うと考えられている。しかしながら実際には、科学者の社会リテラシーを向上したらば、必然的に具体的な行動が生じるとは考えにくい。

科学者の社会リテラシーの向上と具体的な行動の間には、いくつかのステップがあると考えられるが、筆者はそのひとつに、科学者が自分にとっての「科学者の責任論」を再構築するステップがあると考えている。つまり「何が責任として求められているのか」「私はいま何をすべきか」「私や私の分野では、何をすることが社会にとって良いことで、何をすることが悪いことなのか」という科学者個人やコミュニティの(つまりミクロレベルの)倫理観・信念の変革を行うステップである。倫理教育や制度改革の実施は、価値観・信念の変革の次の段階に来るものである。ミクロレベルの変革を伴わずに規範や制度を変革したとしても、形骸化や不正が生じてしまうと考えられるためである。

では、どうしたら科学者の価値観や信念の批判的な見直しができるのだろうか。筆者が注目するのは、「省察」である。

 

4. 「省察」の科学者の責任論への応用可能性

「省察(reflection)」は教育学や経営学など、様々な研究者が議論し、理論を構築してきた。reflectionという言葉は、反省、省察、内省、振り返りなど訳語が多数あり、定義も議論の系譜も複数ある。その中で、本稿では意識変容を目指した省察に注目したい。ここでは意識変容の学習の第一人者である、成人教育の研究者、メジローの理論をとりあげる。

メジローは省察を三種類に区別している。ひとつは「内容の省察」であり、問題の内容や説明についての振り返りである。二つ目は「プロセスの省察」であり、問題解決の方法について考えることを含んでいる。三つ目は、「前提の省察」であり、前提を振り返って、問題自体の妥当性が問い直されることである。問題の背後にある前提や信念、価値観が問い直されることで、意識変容が生じる可能性がある(Mezirow, 1991)。ここでいう意識変容とは、「人やものごとがどうなるかについての前提や期待を振り返り、その前提が誤っていることに気づき、それを修正」することである。本稿で重視するのは、この「前提の省察」である。

メジローの理論では前提となる知識や価値観、信念を自覚し、批判的に検討する。一方、科学者の責任論で求められる省察は、自分の研究や自分が属する科学への、価値観や信念・知識の批判的な省察である。つまり、メジローの理論を踏まえることで、科学者個人やコミュニティは、科学者の責任論を再構築できると考えられる。

では、どのようにして省察を行えばいいのだろうか。メジローは意識変容が生じる場面を次のように述べている。学習者は、異文化に接してこれまでにない価値観に出会う、あるいは死といった生き方やアイデンティティについて根本的な見直しが求められる場面に出会った時に、恐れや罪悪感を伴うジレンマを感じ、それまでの知識や価値観に基づいた対策ができなくなる。そしてこのジレンマが生じた時に、自分の生き方の前提を批判的に見直し、新たな知識を自分の前提を構成している枠組み(意味パースペクティブ)に統合するという。また、メジローによると、「前提の省察」を行うためには会話が有効であるという。会話をする際には、十分な情報があること、強制力がないこと、会話の多様な役割を想定する平等な機会があること、自己の前提に対して批判的な省察を行う姿勢を持つこと、他者の観点に共感的かつオープンであること、聞く意志と共通基盤や異なる観点の統合を探る意志があること、一時的で最善な判断を行うことができることをあげている。そしてこれを支援する教育者やファシリテーターの重要性を挙げている(Mezirow,1997)

これを踏まえると、科学者の省察には、適切なファシリテーターのもとで、科学者以外の異なる価値観をもつ人々と対話し、価値観や信念のギャップ、あるいは自らの社会に対する考え方を自覚し、批判的に省察することが求められると考えられる。省察の結果、もしも自らの価値観や信念が誤っていた場合にはそれを見直すことが求められる。

一方で、科学者に価値観のギャップをもたらすような対話の場、学習の場を準備することは容易ではない。クラントンは、意識変容の学習の方法のひとつとして事例研究をあげている(クラントン, 2003)。科学技術社会論や科学論などの研究成果を利用して事例研究を行い、自らの価値観や信念の相対化の方法を学ぶことが有用かもしれない。

科学技術社会論では、科学と社会の関係性が議論されてきた。専門家と非専門家のフレーミングや価値観、考え方の違いを考察した研究も多い(例えば藤垣, 2005;Wynne, 1996)。また、科学論では、科学とは何か、どういう営みなのかについて、哲学や歴史、社会学といったアプローチで探求してきた(例えば金森・中島, 2002)。これらの分野では、科学を相対化したり、科学と社会を対比したりする研究が豊富にある。このため、自らの科学に対する価値観や信念を客観的に分析する手助けになる可能性がある。

省察の重要な点は、「何が責任として求められているのか」「自分は何をすべきか」ということに関して、結論をあらかじめ用意していないことである。省察を行い、科学者の責任論を考えるのは科学者個人、あるいはコミュニティ自身であり、なんらかの価値観を強要することはない。これは科学が権力に抵抗する自律性を保持する上で重要である。また、現代の科学は細分化し、多様化している。社会への影響力が比較的弱い理論的な分野もあれば、より技術に接近した科学技術の分野、社会的な問題の解決を目指した分野もある。分野、あるいは科学者によって社会的責任の内容や、取るべき行動は異なってくるだろう。このため、個々の科学者がそれぞれで省察を行い、方針を考えることは重要であると考えられる。

では、具体的にどのようにすれば、省察を実践する場を作れるのだろうか。一つの案は、科学者を目指す学生を対象に、省察の意義や方法論を伝えることである。大学の講義等で科学者の責任論の歴史や現状を伝え、省察の方法論を実践するよう促すことは、責任ある科学者を育てる上で重要である。

同時に、現役の科学者も省察を実践する必要がある。科学者の責任論は時代とともに常に変化するものであり、その議論は現在の科学制度や研究方針、つまり「科学のあり方」全体に関わる。このため、学生のみならず、現役の科学者こそ議論に参加する必要があると筆者は考えている。省察も現役の科学者自身が行い、行動につなげていくための方法論である。学会や大学・研究所などに部会・勉強会を設置し、省察を伴った議論を組織レベルで継続していくことが重要なのではないだろうか。

本稿では科学者の責任論のレビューを行い、課題とその解決策を省察の概念を用いて考えた。今後の課題としては、これまで科学者が省察をした事例がなかったのかどうかを調査する必要がある。していないとしたらなぜできなかったのか、している科学者がいた場合にはどのような事例があったのかを分析し、省察が科学者の行動とどう関わってきたのかを考える必要がある。

また、科学者の責任の遂行は省察の支援だけでは十分ではない。現在の科学者は競争にさらされ、責任を果たす活動を行う余裕がないと言われることがある。そのため、第一に、科学者をとりまく環境を改善し、(省察を含んだ)責任に関わる活動に参加しやすくする必要があるだろう。また、省察が制度改革につながるためには、社会リテラシーの向上やコミュニティレベルでの議論が必要である。果たすべき責任の内容について、社会との合意が必要な場合は、熟議の機会も作らなくてはならない。このように、多くのアプローチでの対応策が必要である。今後も、多様なアプローチを取り入れる方法を考えていきたい。

 

(1) 2011年以降の科学者の責任論の再考に関わる議論としては、たとえば、岩波『科学』で責任論に関わる記事が多数掲載されたこと、坂田昌一の再評価(坂田・樫本, 2011;江沢, 2012など)が行われていること、などがあげられる。

(2) 外部責任・内部責任を通して議論した日本語の教科書や文献には、たとえば池内(2007)藤垣(2010)ニュートン(1990)などがある。

(3) 技術者の責任論の歴史的系譜については金光(2006)を参照のこと。また、技術者の責任論は多数の教科書がある。教科書については石原(2003)を参照のこと。

(4) 唐木の批判や、戦時中の科学運動に対する評価に関しては、批判や議論がおきている。詳細は唐木(2012)、武谷(1982)、内井(2002)、村上(1994)、藤永(1996)などを参照。

(5) 例外的な活動としては、高木仁三郎の活動が有名である。詳細は高木(1999)などを参照のこと。

(6) 科学者憲章は次のURLで見ることができる。http://www.scj.go.jp/ja/info/kohyo/09/11-18-s.pdf [2013, February, 1]

(7) 市民参加の討議の際に科学者が考慮しなくてはならない、妥当性境界の違い、社会的合理性と科学的合理性の違い、変数結節と状況依存性などの論点については、藤垣(2003)を参照のこと。

(8)  札野は技術も含めた科学技術倫理が取り扱う対象、方法論を、メタ、マクロ、メソ、ミクロに分類している。メタは科学技術そのもののレベル、マクロは科学技術と社会との関係、メソは科学技術の制度・組織、ミクロは科学技術者個人とその行動を指す(札野, 2002)

 

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目次

論文の先頭 1.  はじめに

2.  科学者の責任論

3.  課題解決に向けて

4. 「省察」の科学者の責任論への応用可能性

参考文献

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最終更新日 : 2013. 8. 4  連絡先: 中川 徹  nakagawa@ogu.ac.jp