パーソナル・コンピュータ産業の経済分析 マルチメディア産業の発展のために (上) ★★★同産業の日米比較と、将来の「マルチメディア産業」発展のための知見★★★ 鬼木 甫 T.まえがき  パーソナル・コンピュータ産業(以下パソコン産業あるいはPC産業と略す)は、日米両国において、1980年代初頭から現在までの約10年間に急速な成長をとげた。本稿の目的は、その経過を跡づけ、同産業を両国間で比較し、そこから将来における「マルチメディア産業」発展のために有用な知見を引き出すことである。  日米のパソコン産業には、1990年初頭にいたるまでかなりの製品価格差・性能差があったが、両国のパソコン市場は言語障壁によって隔離されていた。しかしながら技術進歩の結果、1992年秋ごろから米国方式のパソコンを日本語で実用できるようになり、その結果、米国産のパソコンがわが国市場に流入した。これに対し、国内メーカーは、性能を大幅に向上させた新しい機種を発表し、従来機種よりもはるかに低い価格での販売を開始した。  本稿では日米両国のパソコン産業の経過と両国の市場構造の差を明らかにすることにより、日米間に格差が生じた理由を考察する。今後においては、新しいオペレーティング・システム(Windows等)の普及によって国内と国外のパソコン市場は一体化され、世界規模の市場においてメーカー間の競争が進行すると予想される。したがって、過去10年間にわが国で生じた問題が、そのままの形でパソコン産業において生ずることはないであろう。しかしながら、将来の先端技術産業、とりわけ現在萌芽期にある「マルチメディア産業」において類似の事態がくり返されないとはかぎらない。本稿の意図は、過去におけるパソコン産業の経過を振り返ることにより、将来のための有用な知見を得ることである。  主要な結論は以下の通りである。まず、日米間のパソコン産業の格差は、米国において横断型競争市場が広汎に形成されたのに対し、わが国においては市場が縦割りになり、それぞれの市場で独占(あるいは複占)が成立したことによる。両国間でパソコン産業の市場構造に大差が生じ、米国においては上下分離された市場が横断的に形成され、米国および米国外のメーカーを巻き込んだ競争市場が成立した。これに対し、わが国においては、パソコン産業がメーカーごとの縦割りとなり、それぞれの市場で独占(あるいは複占)が成立し、そのため技術進歩の速度も遅く、製品価格は高水準にとどまり、需要増加の速度も米国に比べて低かった。  このような両国のパソコン産業構造の差は、市場参入の難易に依存して決まり、それは知的財産権制度とその運用方式に関係する。また分業と協力、標準化の実現に関する制度・慣習の差も関係している。大型企業による市場の縦割りとシェア競争という日本型の産業構造は、これまで繊維・鉄鋼・自動車・家電産業では成功したが、パソコン産業(あるいはより広く情報産業)には適していないのではないかと考えられる。将来においてわが国の「マルチメディア産業」が順調に発展するためには、技術の特質に適した競争市場が形成されるように知的財産権制度を改良し、かつその運用方式を改革する必要がある。場合によっては標準化を含む「情報産業環境」整備のための「新政策」が必要になるかもしれない。  本稿は2回に分けるが、本号では問題の提示と背景の説明、次号では問題への解答を述べる。まず本号では、パソコン産業の特色と、その経済分析の意義を述べ、次いで日米両国のパソコン産業の現状と歴史を概観する。次号で、横断型上下分離市場と「縦割り」市場について説明し、日米両国間のパソコン産業構造の相異を明らかにする。次いで、このような産業構造の相異をもたらした原因を制度・慣習の面から考察する。最後に、結論として、今後において必要とされる政策について述べる。 U.パソコン産業の特色と同産業の経済分析 A.ユーザの立場と供給者の立場  読者の多くは、すでにパソコンのユーザであろう。大学でのレポートや論文をはじめ、サークル・同好会の通知や、私信・年賀状などをパソコンで書いている人は多いだろう。住所録をはじめとする個人データの整理、研究用データの処理にもパソコンが使われていると思う。読者の一部は、「パソコン通」として友人に使用法をコーチしていることだろう。また、就職後は、パソコンは日常業務の必需品になる。総務・企画部門でも、営業や生産工場の現場に出ても、パソコンを有効に使うか否かは、仕事の効率に大きな影響をおよぼす。  パソコンがこのように便利であるのは、紙やペンと同じく、情報処理のための汎用器具であるからである。紙の歴史は数千年、ペンの歴史は数百年であるが、パソコンの歴史はまだ10年に満たない。このことを考えれば、二十一世紀までにパソコンがさらに便利・安価になって、われわれの日常業務を助ける必需品となることは疑いない。パソコンについては、解説書や最新の情報を知らせる雑誌も多く、その気になれば、パソコンを有効に使うための情報を手に入れることは難しくない。また本誌では、パソコンを活用した経済分析の手法が何度か解説されている。  ところで、本稿のテーマは、パソコンの供給者側、すなわちパソコン産業の事情である。日本のパソコン産業はどのような特色を持っているか、それはどのような経路で数年のうちにゼロから1つの産業に成長し、さらに将来の発展をめざしているのか。この分野のリーダーであるアメリカと比較して、日本のパソコン産業はどのような共通点・相違点を持っているのか。  読者は、「なぜ今パソコン産業を考える必要があるのか。ユーザとして便利なパソコンを安く供給してもらえばそれで充分である。」との疑問を呈されるかもしれない。これに対しては、たとえば日本の農業とくに米の生産に関するわれわれの経験をもって答えたい。戦後50年間、米の生産について、消費者は農家と規制当局(農水省)に任せきりにしていた。その結果はご承知のとおりである。一般にどの産業でも、企業や規制当局は供給側の短期的な利害に目を向けやすく、ユーザの立場や外国の事情まで考慮に入れた長期的な方針をたてることには消極的である。この欠点を補うためには、それぞれの産業に対して、消費者・ユーザからの批判や注文が必要になる。エコノミストは、これらの消費者・ユーザの事情を理解し、産業の実状を調べ、適切な意見を述べる立場にある。  パソコン産業の経済分析は、同産業の歴史が浅いこともあって、まだほとんど手をつけられていない。ユーザとしてパソコンに関心を持つ人は多いにもかかわらず、供給側の事情については意外に知られていない。パソコン産業の専門家、とりわけハードウェアのメーカーや、ソフトハウスは同産業の実状をよく知っている。しかし多くの場合、所属企業の利害が搦んでいるため、産業全体に関して適切な意見を持っていても、立場上、発言ができない。したがって、ユーザ側には、同産業の実状についての情報が伝わらず、(パソコンの使い勝手に関する不平や注文は出ても)産業活動の内容に立ち入った意見は出にくいのである。  読者は、たとえば次のような疑問を持たれたことはないだろうか。「パーソナル・コンピュータ生産はなぜ日本のお家芸にならなかったのか?」  日本の産業のお家芸は「軽薄短小」にあると言われてきた。古くはポータブルラジオ、1980年代ではウォークマン、そして電卓などの製品について、日本は世界市場を独歩してきた。これらの経験から、当初パーソナル・コンピュータがメインフレーム・コンピュータのミニアチュア版として出現したときには、多くの人がパーソナル・コンピュータ市場は将来日本が征服するのではないかと予想したのである。すでに確立されていたメインフレーム・コンピュータの手法に倣い、これを小型化し、すぐれた品質管理の下で高信頼性のパーソナル・コンピュータを大量生産し、世界に供給する、という日本得意の図式である。しかしながら、10年たった今日、この期待は裏切られている。一体どのような理由で日本のパーソナル・コンピュータ産業は、ウォークマンや電卓あるいはVTRやファクシミリ機と同じように世界市場に出てゆくことができなかったのか。この疑問に答えるのが本稿の目的の1つである。 B.日米の情報産業  1990年代に入って、日本の産業構造は「曲がり角」にさしかかっている。日本は、1970年・80年代において、鉄鋼・自動車・電気製品をはじめとする製造工業の分野で世界のトップに立ち、優れた研究開発・品質管理によって、高品質と低価格の製品を世界に送り出した。現在われわれが享受している生活水準は、このような製造工業の成功に多くを負っている。実際、日本の製造工業の成功は、農業やサービス産業における非効率性を補ってなお余りがあり、80年代後半以降において巨額の貿易黒字をもたらした。わが国におけるこのような製造工業の成功に対して、欧米諸国とりわけアメリカは、1980年代に必死の追撃を試みた。アメリカは、世界のリーダーとしての誇りを捨て、日本における製造工業の成功の理由を詳しく調べ、それらを自国の企業・工場に採用した。その結果、1990年代に入ると、円高の影響もあり、日本の自動車・電気製品等の競争力に陰りが出てきた。現在では、「企業のリストラクチュアリング」の語が流行している。  このような製造工業の経緯に対し、情報産業における日米の相対的地位は如何であったか。情報産業は、ハード的な製造業としての側面と、ソフト的要因・サービス業の側面の2つの性格をもっている。半導体はシリコン等を素材とする物的な製品であるが、しかし、プリント技術で大量生産できる点では書物や新聞と似ている。コンピュータは多数の部品を組み立てて製造されるので、その点では自動車や航空機と似ているが、しかし、部品は物理的だけでなく情報的にも結合されており、ソフト的要因のウェイトが大きい。これらに対し、電気通信産業や放送産業はシステムあるいはネットワーク産業であり、多数の構成要因を有機的に結合して情報サービスを生産している。パソコン産業は、これら情報諸産業の性格を少しづつ持っており、その代表的な存在と考えることができる。  情報産業において、日本が米国と比較して明らかに優位を占めたことがあるのは、DRAMを中心とする半導体メモリーの生産においてである。同生産について日米間に貿易摩擦が生じたことがこれを物語る。半導体のもう1つの分野であるMPU(CPU、超小型演算制御装置、コンピュータの頭脳部分)の生産については日米格差が大きく、とりわけパソコンのためのCPUはほとんどすべてアメリカから輸入されている。情報産業の他の分野における日米格差も、読者が想像するより大きいと考えた方がよい。情報産業の生産物は、製品についてもサービスについても、情報を取り扱うという特性上、言語差が輸出入の障壁として働くので、国内に居住しながら米国の実情に接する機会は意外に少ない。それぞれの産業の専門家は、自己の分野について日米格差の存在をよく知っているが、ユーザの側では情報が少ないのである。後に述べるように、1992年後半以降に米国からパソコンが急速に流入したことは、同産業における日米格差の証拠である。 C.マルチメディア産業  電話に代表される電気通信サービスも、現在曲がり角にきている情報産業の1分野である。旧来のアナログ電話、すなわちわれわれが日常使っている電話は、すでに日本のすみずみにまで普及し、生活や仕事の必需品になっている。次世代の電気通信は、音声伝達とデータ伝送を主な内容とする現在の技術に対して「広帯域通信(BISDN)」と呼ばれ、電話の数千倍の情報を一挙に伝送し、フルスケールのテレビ電話・映像通信を可能にするものである。このようなBISDNは、在来線に対する新幹線、小型機に対するジャンボジェット機と同様の位置にあり、旧来の技術に比較して格段に優れたパフォーマンスを与える新しい技術である。BISDN技術は、現在実用化の一歩手前にあるが、1990年代後半から二十一世紀にかけてその普及が進み、そのための新しい製品が次々に出てくると予測されている。  このような情勢を受け、米国クリントン政権は、ゴア副大統領のリーダーシップの下に、「情報ハイウェイ」「米国教育・研究情報ネットワーク」などの新しい情報システム・情報ネットワークの建設に乗り出した。これらは、いずれも将来におけるBISDNを視野に入れたシステムである。1960年・70年代に建設された自動車用「インターステイト・ハイウェイ」が米国経済の発展に寄与したように、次世代の情報ハイウェイは、二十一世紀の米国経済を発展させる最重要なインフラと考えられている。「情報大陸アメリカ」が地平線上に見えてきつつあるのである。  このような新世代の通信網には、3種類の構成要素がある。第1は光ファイバー、第2はATMと呼ばれる新しい通信方式とそのための交換機、そして第3には「マルチメディア」情報端末である。このうち光ファイバーの生産については、日本は米国に比較して遜色ない。すでにわれわれの市外電話や国際電話の大部分は光ファイバーによって運ばれている。第2に、ATMネットワークのための製品やシステムの生産はようやく始まったところであり、日米間の熾烈な競争が予想される。  本稿の主題、パソコン産業との関連で重要なのは、マルチメディア端末である。マルチメディアとは、その名が示すように、音声・映像・データなどの多様な情報を有機的に組み合わせて、人間に使いやすい端末・システムをつくり、豊かな情報活動を実現させることを目的とする。パソコンはいわば「最初のマルチメディア」であった。今後出現するマルチメディア端末の多くは、パソコンをベースとし、それを発展させて実現されるであろうと考えられている。  マルチメディア市場は、1990年代後半から二十一世紀にかけての情報市場、電気通信市場の重要な要素であり、次世代通信網が順調に発展すれば、日本だけでもその規模は累計100兆円、200兆円のレベルに達すると予測されている。したがって、近い将来のわが国において、マルチメディア産業が国際的な競争力を持てるか否かは、産業の側からも、ユーザにとっても、強い関心事である。本稿の目的の1つは、過去10年間におけるパソコン産業の経験から、将来のマルチメディア産業の発展のために有用な知見を引き出すことである。 D.経済学における「実験」  経済学は社会学や心理学と並んで実験不可能な学問だと言われる。分析対象が人間あるいは人間の集まりである組織の行動であるから、自然科学におけるように材料を用意し、指定された環境の下で試行をくり返すという手法が使えない。*1 現実にすでに存在する人間行動や社会的現象を観察し、そこからさまざまな因果関係や相互関連に関する推論をおこなうというのが人文・社会科学の主な研究方法である。そのため、実験による検証・テストができる自然科学と比べて、人文・社会科学は、信頼性に欠けると言われる。人文・社会科学におけるこのような制約は、読者はよく知っておられるだろう。  しかしながら、そのような人文・社会科学においても、たまたまラッキーな条件が揃って、あらかじめ計画された実験ではなくとも、それに近い状況が与えられ、強力な結論を出すことができる場合がある。よく引かれている例は、心理学における一卵性双生児の観察である。人間の能力や性格の形成に遺伝と環境がどう影響するかを明らかにすること、すなわち先天的要因と後天的要因を分けることは一般には不可能である。しかし、一卵性双生児の場合には遺伝的要因が同一であるため、観察された双生児間の相違はすべて環境の相違に帰することができるのである。  経済学の分野では、このようなラッキーなケースはほとんどない。実は本稿で取り扱う「パソコン産業の経済分析」は、そのような稀なケースの1つである。後に詳しく述べるように、日米のパソコン産業は、メインフレーム・コンピュータ(大型コンピュータ)産業を「親」とし、同産業ですでに知られていた技術・知識を充分に使い、そのミニアチュア版・簡略版としてパーソナル・コンピュータを製造した。したがって、パソコンが1980年代初期に発足した当時は、日米の間で「遺伝的要因」すなわちコンピュータに関する知識・技術にそれほどの差はなかった。10年たった今日、もし両国の同産業の間に相当の差ができたとすれば、それは「後天的要因」すなわち両国における産業環境の差によると言わなければならない。本稿の目的の1つは、このような両国の「産業環境」の差を明らかにすることである。 V.日米のパソコン産業の現状と歴史 A.パソコン・ハードウェア生産と普及の日米比較  まず最初に日米両国におけるパソコン産業の現状を概観する。図1が示すように、日本のパソコン生産台数は、1991年において約240万台であり、1人当たり0.02台すなわち50人に1台となっている。もし、パソコンが平均5年間使用されるとすれば、これは日本人すべてについて、約10人に1台の割合でパソコンが普及していることを意味する(オフィスだけでなく、家庭をも含めている)。また、同年におけるパソコンの売上高(ハードウェアのみ)は約1.2兆円で、人口1人当たり約1万円である。この額は、国内総生産(GDP)の0.3%に当たり、電気・ガス・水道業(公益事業)における付加価値の10分の1、NTTの電話収入の約4分の1程度になる。これらの数字によって、日本のパソコン産業の規模が理解されるであろう。パソコン産業はまだ大規模産業ではないが、10年という短期間でゼロ水準から現在規模にまで成長したわけであり、その点では多くの産業の中でも稀な存在である。  他方、米国の場合、1991年におけるパソコンの生産台数は約1,625万台であり、人口1人当たり0.071台、すなわち約14人に1台になる。わが国の場合と同じく、もしパソコンが平均5年間使用されるとすれば、これは約3人に1台の普及率、すなわち、オフィスにおける1人1台弱の使用と、大部分の家庭におけるパソコン1台の保有を意味する。1人当たりでは、米国はわが国の約3倍の普及率を達成している。パソコンの売上高は1991年において約390億ドル(ハードウェアのみ)であり、これは1人当たり年間170ドルの支出に当たる。日本円にすると、年間総計で4.8兆円余りとなり、1人当たりでは2.1万円程度となる。1991年の両国におけるパソコンの価格が大きく異なっていたため、1人当たりの台数では米国が日本の約3倍であるのに対し、1人当たりの支出高では2倍強であった。 B.パソコン・ハードウェア価格の日米比較  次に、1992年6月および1993年11月の時点における両国のパソコン(ハードウェア)の小売価格(定価)を比較しておこう。まず1992年には、不況の影響もあって米国でパソコン価格の大幅な下落が見られた。図2Aに示されている米国のデータは、上記価格下落後のものである。他方、わが国においては、輸入パソコンに対抗するため、1993年に入って主要メーカーであるNECとエプソンがパソコン価格を大幅に切り下げた。同図に示されているのは、この切下前の価格である。同図において明らかなように、1992年6月当時のわが国における最新型の高級パソコン(NEC/PC-9801FA2,CPU486SXを使用)の価格は48万円、米国における同種のモデル(HP486N-PC,同じくCPU486SXを使用、ただしCPUの速度は25MHzでNECよりやや高い)の価格は18万円であり、両者の間に大差があったことがわかる。また、上記より速度の遅い普及型のモデルについても、わが国の38万円(NEC PC9801FS2,CPUは386SX)に対し、米国の普及型(Compaq Prolinea、CPUは同じく386SX)は13万円程度である。上記のように1992年はパソコン価格が米国市場において大幅に低下した年であるので、この価格差は実際よりも誇張されているが、同一性能の製品について日米両国の間に3対1あるいは2対1という価格差があったことが分かる。  図2Bは、1993年末の日本市場におけるわが国および米国系メーカーの代表的なパソコンの価格を示す。NECの高級パソコン(NEC/PC9821Bp、CPU486DX2を使用)の価格は40万円弱であり、性能が大幅に向上したにもかかわらず、1年半前の高級パソコンの価格を下回っている。これに対し、普及型パソコン(NEC/PC9821Be、CPU486SXを使用)は、1年半前の高級パソコンの性能を若干上回るが、その価格は26万円強であり、1年半前の同種パソコンの半分近くになっている。また、米国系の高級パソコン(Compaq Prolinea 4/66、CPU486D2を使用)の価格は30万円弱であり、NECの同型モデルの約75%となっている。同じく普及型モデル(Compaq Prolinea 4/25s、CPU486SXを使用)の価格は、すでに20万円を下回っている。上記から明らかなように、1993年末の時点において、1年半前よりもパソコンの性能は向上し、価格は大幅に下落したが、依然として米国系のパソコンの価格はNECより低くなっている。(ただし、上記は定価であり、実売価格は販売後のサービスの程度などに依存する。NECのパソコンでも、サービスのほとんどつかないディスカウント・ショップでの実売価格は米国系のものに近づいているという報告もある。)  上記のデータから、パソコン産業において日米格差が存在するのか、存在するとすればそれはどの程度であるかを厳密に述べることは難しい。しかしながら、専門家の話を総合すると、1993年末においてもまだ相当の格差が残っているとする判断が当を得ているのではないかと思われる。1つの証拠は、米国系のパソコンが、わが国に近い韓国・中国に相当数輸出されているのに対し、わが国から両国への輸出は、(わが国のパソコンが漢字を取り扱えるという長所を有するにもかかわらず)皆無に近いことである。わが国の他の産業が韓国・中国市場において持っている競争力から判断して、もしわが国のパソコンの性能価格比が米国系のパソコンと等しいか、あるいはそれを上回っていれば、相当数のパソコンがわが国から両国に輸出されるはずだからである。しかしながら、これらの点については、より立ち入った研究を必要とする。 C.日米におけるパソコン生産のはじまり――多品種間の不完全競争  次に、1980年代初頭以降における日米両国のパソコン産業の経過をまとめて述べる。表1に主要事項が示されている。  パーソナル・コンピュータは、70年代当時はマイクロ・コンピュータ(マイコン)と呼ばれていた。それは集積回路技術の発展にともない、従来大型機用として多数個のチップ(半導体)に分散されていた情報処理機能が1個のチップにまとめられ、ワンチップ・コンピュータ(マイクロプロセッサー・ユニット、MPU、CPU)として供給されたことに始まる。もとより、大型機よりも機能を簡素化し、処理可能な命令数も大幅に削減させたものではあったが、とにかく従来の大型機と類似の機能が1個のチップで実現できるということで、将来におけるコンピュータ発達の方向を示す製品として内外の注目を浴びた。  70年代中葉から同年代末にかけて、米国においても日本においても、多数のコンピュータ・メーカーが、個人用の小型コンピュータすなわちパーソナル・コンピュータをインテルあるいはモトローラなどのCPUを使って組み立て、市場に供給した。当時においては、CPUの能力は現在に比べてはるかに低く、小規模の計算や短い文章のワードプロセッサー機能程度を有するだけであった。このように発足直後のパソコン産業は、日米両国において、多数メーカーが異なる機種を提供するという異機種商品間の競争(不完全競争)の形をとっていた。80年代に入り、この中から米国においてはIBMが、日本においてはNECが急速にシェアを広げ、数年のうちに独占的な地位を確立するのである。 D.日米におけるパソコン生産の独占の成立  まず米国においては、1981年にIBMがインテルのCPU8086を使用したIBM-PCを発表し、パソコン市場に参入した。8086は16ビットのCPU(16ビットのデータを一度に処理する能力を持つCPU)であり、従来の4ビットあるいは8ビットCPUよりも高速であった。それは、オフィスの日常業務をほぼ満足できるスピードで処理できる最初のCPUであった。従来のパソコンは、どちらかといえばホビー用あるいは家庭用を目的としていたが、IBM-PCは参入当初からオフィスにおける使用に狙いを定めていた。IBMパソコンは米国の企業社会に広く受け入れられ、パソコン市場におけるシェアを急速に拡大し、発売2年後の1983年には同市場で70%以上のシェアを占めるようになった。また、IBMは1984年にインテルの新しい16ビットCPU80286を装備したPC-ATを発表し、引き続き市場の主導権を握った。  他方、わが国においては、米国に1年ほど遅れて、NECがIBMのPCと同じくインテルのCPU8086を装備したパソコンを発表し、IBMと同じくオフィスにおける採用数を急速に伸ばした。1983年には、日本IBMが米IBMパソコンを改造した日本語仕様機5550を発表し、また、富士通、日立もそれぞれ事務用を主目的とする16ビットパソコンを発表して、市場のシェアを争った。わが国においては、米国と異なり、汎用大型機の主要メーカーが日本IBM、NEC、富士通、日立と分かれており、4社のパソコンはそれぞれの大型機との親和性を考えて提供されたので、オフィス用のパソコン市場は4社並立となった。これに対し(大型機と直接に連結されない)個人使用のパソコン(必ずしも家庭用でなく、大部分は企業において事務用に使用された)については、NECのPC-9800型パソコンが急速にシェアを伸ばし、1980年代なかばごろまでに企業用と個人用の双方を合わせて、NECがシェア第1位をとるようになった。  このように、70年代におけるパソコン(マイクロコンピュータ)の出現期から、80年代前半までに、両国のパソコン市場は、不完全競争から独占に変わっていった。これは、技術的理由によるて「自然独占」が作用したものと考えることができる。両国のパソコン産業は、米国IBMおよびわが国NECが主導権を握るようになるまではほぼ同一のパターンで展開した(わが国が米国を1年程度の差で追っていた)。しかしながら、80年代なかばから互換機市場の展開が始まると、日米両国のパソコン産業の構造に大差が生ずるのである。 E.米国における互換機メーカーの参入と競争市場の成立(パソコン標準の成立)  まず、米国においては、IBMの参入以後、パソコン様式としてはIBM型のパソコン(PC-AT)が主流となり、それ以外の形式のパソコンは、ほとんどすべて市場から姿を消してしまった。(現在まで残っている唯一の形式は、アップル社によるマッキントッシュ型のパソコンである。)このようにして、1980年代前半にIBMによる独占が形成されるが、数年のうちに、IBMパソコンと同一形式のパソコンを供給する互換機メーカーが急速に成長した。図3は、1983年にIBMパソコンのシェアが72%強であったのに対し、4年後の1987年にはIBMパソコンのシェアが4分の1以下に落ち、市場の75%以上が互換機メーカーによって占められるようになったことを示している。  互換機メーカーの急速な成長を可能にした理由としては、IBMによるパソコン仕様開示の方針、メーカー・ユーザによる標準方式の受け入れ、および競争促進のための裁判所判決などが挙げられる。IBMは、当初からパーソナル・コンピュータの部品の取り替えを可能とする設計を採用し、同時にそれぞれの部品の結合仕様(インターフェース)を公開した。その結果、IBMパソコンの互換部品や互換機の生産が可能となり、多数の中小メーカーによる技術開発、市場参入、価格低下がもたらされ、同時にIBM方式によるパソコンの標準化が実現された。その結果、IBMは80年代中葉の数年間に互換機メーカーの攻勢にさらされ、独占市場を急速に失うことになった。しかし、このような競争市場の進展は、価格低下による需要の増大、生産の増大にともなう価格低下という好循環を生み出し、IBM型のパソコン産業を急速に成長させたのである。  IBMが何ゆえにこのような設計方式を取り、また何ゆえに部品のインターフェース様式を開示したかについては、種々の推測がなされている。その1つは、IBMは当時パソコン本体の生産・供給だけを意図しており、本体以外の入出力装置、記憶装置などは、外部メーカーの供給に期待していたことにあるとするものである。また、IBMがPC-ATを発表した当時は同社の主要収入源が大型機にあり、パソコンは大型機周辺の端末として考えられていたので、仕様の保護に熱心でなかったとする考えもある。  IBMは、独占市場の利益を失うことを意味する上記方策を後になって修正している。同社は、1980年代中葉に、基本入出力装置(BIOS)の生産について互換機メーカーを知的財産権違反として何度か提訴した。また、1989年には、新しいマイクロ・チャネル方式(MCA)をデータ・バスとして採用し、その仕様を公開せず、バス使用者から高額のライセンス料を取ることを試みた。すなわちIBMは、インターフェース公開の方針を後に修正しようと試みているのである。しかし、これらの試みは必ずしも成功しなかった。  上記の諸点について当時の事情を明らかにするためには、より立ち入った調査が必要である。 F.わが国における複数メーカーの併存とNEC方式市場の複占化  上記のように、米国のパソコン市場はIBM互換機メーカーの大量参入によって一部を除いて競争市場となったが、わが国ではこれと異なる経過をたどった。まず、企業において大型機の端末として使用されるパソコンについては、メインフレームの供給者でもあるNEC、日本IBM、富士通、日立のパソコンが並立する形が継続した。4社のパソコンの仕様は、基本的には米国IBMパソコンの仕様に倣っていたが、細部において異なり、それぞれ別種の製品として供給された。他方、個人用(企業および家庭)パソコンでは、NECのPC-9800が着実にシェアを伸ばし、1980年代後半には、価格と品質、利用可能なソフトウェア数などにおいておおむね独占的地位を確立した。また、NECのPC-9800のシェア上昇と性能向上にともなって、同機が大型機端末として採用されるケースも増加した。ソフトウェア上の工夫によって、NEC製PC-9800がNEC以外の大型機にも接続できるようになり、PC-9800のシェアがさらに増大した。  1987年にいたり、NECのPC-9800型市場に、エプソンが互換機メーカーとして参入を試みた。NECは、エプソンをBIOSの著作権違反で提訴したが、結局両者の和解が成立し、PC-9800型市場は、NECとエプソンによる複占体制となった。同年以後、同市場に新たに参入を試みたメーカーは現れていない。  これらの結果、1990年にいたり、わが国のパソコン市場は、その60%以上をNECとその互換機が占め、残りのシェアを日本IBM、富士通、日立の3社および他メーカーが占めるようになった。 G.米国におけるパソコン性能向上と価格低下、米国製パソコンのわが国への流入  この間、米国においては、1980年代後半にIBMのPC-AT機がパソコンの標準機となり、同互換機の供給が急速に増大した。その結果性能向上と価格下落が著しく、このころから日米パソコンの格差拡大の傾向が明瞭になった。1989年にいたり、IBMは新しい方式のパソコンPS/2シリーズを発表し、新たにPC-ATバスに代わるMCAバスを採用し、その無断使用を禁じて市場シェアの拡大と独占市場の再形成を試みた。PS/2は高性能・高価格機であったため、大企業では相当数が採用されたが、個人ユーザが多数を占める米国のパソコン市場で主流となることはなかった。1990年代に入るまで、米国のパソコン市場の大部分はPC-AT型互換機(ただし当初のPC-AT機よりも、CPU、周辺機器等において能力を増大させている)が主流を占めた。  1980年代後半から90年代にかけて、日米のパソコンには、インテルの80286から、同社の386、次いで486と大幅に性能を向上させたCPUが採用された。米国においては80年代中葉のPC-AT型機、日本においては同じく同年代中葉のPC-9800型の機種が主流を占め、それぞれ実質上のパソコン標準機としての地位を確立した。しかしながら、この期間、米国のパソコンが日本語を取り扱えないという事情から、わが国パソコン市場は米国から隔離され、米国製パソコンのわが国への輸入はゼロに等しかった。ただし、わが国メーカーによるIBM互換機の輸出は漸増した。  1991年に到り、CPUの能力増大から、日本語を考慮しないで生産された米国IBM型のパソコン上で日本語を取り扱うこと(日本語文書の作成や、日本語を含んだ表・データなどの処理)が可能になった。そのための新しいOS(オペレーティング・システム)が、日本IBMのDOS/Vである。他方、米国においては、経済全般にわたる不況により、1991年から92年にかけてパソコン価格が下落した。当初は、小規模互換機メーカーのみの価格引き下げであったが、漸次(コンパックなどの)大規模メーカーへも波及し、最後にはIBMも価格を引き下げた新しいパソコンを供給するようになった。これらの結果、日米のパソコン価格・性能差が従来にもまして顕著になり、1992年の後半から米国製のパソコンがわが国市場へ輸入されはじめた。その結果1993年に到り、NECおよびエプソンは、性能を強化し、価格を2分の1程度に引き下げた新しい機種を発表して輸入パソコンに対抗することになった。わが国においては、1992年から93年にかけて不況が深刻化したので、パソコン市場の規模は若干縮小した。そして1993年には、米国製パソコン、NEC・エプソンのパソコンともに、価格引下、性能向上が進んだ。1993年末において、日本のパソコン市場の大部分は依然PC-9800型が占めているが、新しいOSであるWindowsなどの普及により、米国製パソコンのシェアが少しづつ増加すると予測されている。 H.CPU市場――インテルの独占と「ロックイン効果」  以上が、1970年代末から1993年にいたるまでの日米のパソコン市場(主にハードウェア市場)の事情であるが、以下に、CPU市場およびソフトウェア市場に関して付け加えておきたい。  CPU(演算処理装置、MPU)は、パソコンのうちで最も重要であり、また最も高価な部品である。表2は、1970年代以降にインテルが供給した主なCPUを示す。当初はCPUの取り扱う命令(作業指令)の大きさが4ビットあるいは8ビット、またCPUが取り扱うデータの幅も4ビットあるいは8ビットであった。これが8ビットから16ビットへ、さらに32ビットへと拡大して、現在の486になった。1993年には、新しい64ビットのCPUであるPentiumの供給が始まった。  パソコン産業は、その中心部品であるCPUの発展に依存してきた。新しいCPUが供給されると、それを装備するパソコンの能力も増大する。現在のインテル486は、すでに数年前のメインフレームの処理能力を凌駕している。図4に、1982年と87年の両年における大型機とパソコンの能力当たりの資本価格が示されている。大型機、パソコンとも5年間に価格が半減しているが、大型機とパソコンの間には1対10程度の性能価格比の開きがある。最近のCPU能力の急速な上昇により、従来大型機でしか処理できなかった仕事がパソコンで扱えるようになった。したがって企業は、従来大型機によっていた業務をパソコンに移しつつあり、この傾向は「ダウンサイジング」と呼ばれる。将来においては、大型機でしか扱えない特殊な業務(大規模な科学技術計算、銀行取引、社会保険の管理など)を除き、大部分の情報処理はパソコンによっておこなわれるであろうと予測されている。  1970年代および80年代初頭までは、インテルに加え、モトローラ、ザイログなどが異なる仕様のCPUを提供していた。このうち、ザイログはすでに供給を止めており、現在では、モトローラが一部のパソコンや、(プリンターなどの)周辺機器にCPUを提供している。したがって、パソコン産業で使用するCPUの大部分は、インテルの独占下にある。  インテルは、表2に示すように、20年近くの期間にわたって次々に高性能のCPUを供給してきた。この間、上位のCPUは常に下位のCPUの機能を包含し、それを高速化・拡張する形で設計・供給されてきた。したがって、新しいCPUを採用したパソコンが供給されても、古いCPU・パソコンにおいて使用されたプログラムは、そのまま新しいCPU・パソコンにおいても使用できる。これは新しいCPUの「下方互換性」と呼ばれ、インテルの独占的地位の継続に決定的な役割を果たした。すなわち、あるCPUを使用するパソコンが供給され、そのパソコン上で走るプログラムが作られると、ユーザはその様式のパソコン・プログラムに習熟し、また、その様式のパソコン・プログラムで使用できるデータを蓄積することになる。次に、上位の、しかし同一様式の使用を許すCPUとパソコンが供給されても、ユーザはハードウェアを交換するだけで、同じ仕事をより短時間で実行できる。ハードウェアの導入時にソフトウェア・使用法に手をつける必要は無い。  他方、新しいCPU・パソコンで初めて実行できる仕事は、少しずつ導入される。すなわち、ユーザは古いパソコンで培ったノウハウやデータをそのまま使いつつ新しい仕事を開拓できる。ユーザは、以前に支払ったコストを生かしながら、新しい局面への展開が得られることになる。また、CPUメーカー、パソコン・メーカーの立場から見れば、一度獲得したユーザを失わないで新しい製品を販売できる。この理由で、CPUの「下方互換性」は、インテルによる独占市場維持の基本的な手段となり、同社はCPUの価格を累年にわたり高水準に維持することに成功した。  しかしながら、CPUの価格が極端に高いと、互換CPUの供給が促進されることになる。実際、インテルの新しいCPUが供給されると、2〜3年の期間で互換メーカーが同一機能を持つCPUの開発に成功し、より低い価格で市場に供給するのが通例となっている。そのCPUに関しては、インテルは独占市場を失うわけである。1980年代末から、AMD、サイリクスなどがインテルCPUの互換メーカーとして参入している。しかしながら、インテルは、ある1つのCPUの供給後数年のうちに次段階の上位CPUを供給する方策を採り、CPU市場において常に優位を保って現在まで独占的地位を維持している。 I.ソフトウェア市場――マイクロソフトによるOSの独占・「ロックイン効果」とアプリケーション市場における日米格差の拡大  次にソフトウェア市場について、日米のパソコン産業を比較しておこう。ソフトウェアは、オペレーティング・システム(OS)とアプリケーション・プログラム(AP)に分類される。OSは、パソコンのモデルごとに少しずつ異なるハードウェアの相異を吸収し、同一のAPを異なるハードウェア上で実行させることを可能にする。APは、それぞれの目的(文書作成、数値計算、グラフ描画など)のためにパソコンを働かせるための命令の集まりであり、OSを通してハードウェアを駆使し、仕事を実行する。  米国においてOSは、マイクロソフトの供給するMS-DOSが使われている。他メーカーのOSも一部では使われたが、実質上はマイクロソフトの独占市場である。CPUと同じく、MS-DOSも下方互換性を保ちながら累年改良されている。  わが国においても、OSは独占供給の形をとった。ただし米国と異なり、わが国では複数メーカーから異なる仕様のパソコンが供給されたので、各メーカーがマイクロソフトからライセンスを取得し、それぞれのメーカー仕様のパソコン用のOSに書き換えて供給された。  アプリケーション・プログラム市場についても、日米の間で構造上の相異が大きい。まず米国においては、パソコンのハードウェアおよびOSがIBM方式で標準化されたため、単一のソフトウェア市場が成立した。IBMのPCが供給されはじめた80年代初頭から、多くのソフトウェアのメーカー(ソフトハウス)が誕生し、それぞれの工夫を生かした特色あるソフトウェアが供給された。実際には、ワードプロセッサー(文書作成用プログラム)、表方式による計算プログラム、データベース・プログラム、会計・経理プログラム、その他の補助プログラム(ユーティリティ・プログラム)などの分野で、ソフトハウス間の競争が進行している。分野によっては、シェアの半分以上を1社で占める場合もあり、また、少数のソフトハウスが特定分野のシェアを分けているケースもある。しかし、各分野のソフトウェア市場には、新しいソフトハウスの参入が続いており、長期にわたって独占・複占的高価格を維持することは不可能である。その結果、IBM方式のパソコンについては、80年代初頭から現在まで、10万点を超えるソフトウェアが供給されたと言われる。  他方、日本のソフトウェア市場は、前述のようにOSおよびハードウェアがパソコン・メーカー別に分かれており、APからOSへのインターフェースが標準化されなかった。その結果、それぞれのメーカーのパソコンについてソフトウェア市場が成立することになった。同一目的に使用するプログラムでも、それぞれの方式のパソコンに適合するように複数個のAPとして開発する必要があり、IBM方式のパソコン用1種類だけを開発すればよい米国と比較して、開発の手間・コストが大きい。実際には、NECのPC-9800方式のパソコンが市場の半分以上を占めているので、ソフトウェアの大部分はPC-9800用として供給された。現在まで、同方式パソコン用のソフトウェアは、延べ約1万点が供給されたとされている。NEC以外の方式のパソコンについては、ソフトウェアの供給数ははるかに低く、それぞれ数百〜数千点程度のソフトウェアが供給されたと推測される。ユーザの見地からすれば、選択できるソフトウェアの種別と性能について日米格差が大きいという状態が続いた。 「パーソナル・コンピュータ産業の経済分析――マルチメディア産業の発展のために」上(日米パソコン産業の歴史と現状)、『経済セミナー』、No.472、1994年5月、pp.44-54(一部改訂:1998年12月)。