パーソナル・コンピュータ産業の経済分析 マルチメディア産業の発展のために (下) ★★★日米パソコン産業の歴史と現状★★★ 鬼木 甫 W.パソコン産業の構造 A.日米間のパソコン産業構造の差――「上下分離」と「縦割り」  本稿の主要な論点は、パソコン産業構造におけるに日米両国間の相違が、両国の技術進歩の速度に影響を及ぼしたと考える点にある。後に詳しく述べるように、米国においては、パソコン産業に「上下分離・横断」型の産業構造が生まれ、それぞれの市場で多数のメーカーが激烈に競争して、急速な技術進歩をもたらした。これに対し、わが国においては、パソコン産業がメーカー別の縦割り構造になり、それぞれの市場内で独占(あるいは複占)が成立した。その結果、技術開発力が分散し、メーカー間の競争も不十分であり、高価格と需要の伸びなやみの傾向が目立った。これらの点を説明するために、まず、産業構造における「上下分離・横断型」と「縦割り型」の区別について述べる。 B.自動車生産の例  理解を容易にするために、まず自動車生産の例で説明する。自動車生産では、鉄、プラスチック、その他の原料から部品が生産され、次に部品を組み立てて自動車が生産される。さらに自動車の販売、修理、メンテナンスなどのサービス生産が続く。したがって、自動車の代金あるいはレンタル料には、図5Aが示すように、原料費、部品費、組立サービスのコスト、販売、メンテナンス等のサービスのコストが含まれている。この考え方は、国民所得理論における付加価値の形成と同一である。すなわち、自動車サービスの生産のために、図5Aの各段階で付加価値が生み出され、それらの合計が自動車価格となる。このような仕方で理解された自動車生産の構造を「垂直構造」、あるいは「上下分離構造」という。  次に自動車生産の「水平構造」を考えよう。最も簡単なのは、車種別に区別された「水平(方向への分割)すなわち縦割り構造」である。図5Bに示されているように、自動車を乗用車、トラック、二輪車、その他の車種別に区別する。この分割は常識的で分かりやすい。  自動車生産の上下あるいは水平方向への分割は、同時に自動車産業の可能な構造を示している。自動車産業が図5Bの「縦割り」構造をとっている場合には、車種別の自動車製造会社が、原料の調達から部品生産、組立、販売、メンテナンスまでの業務をおこなう。これに対し、図5Aの「上下分離」型の場合は、異なる車種にまたがる原料メーカー、部品メーカー、組立業者、そして販売・メンテナンス業者が、それぞれ別会社として横断的に活動する産業構造に対応する。ただし、このような「縦割り」や「横断型上下分離」構造は、単純化された「理想的な」場合である。実際には、「縦割り」構造と「上下分離」構造が入り組んでおり、図5Aあるいは5Bのような簡単な構造にはなっていない。両図は、複雑な現実を理解するための手がかりである。 C.「バス交通サービス」生産の例  自動車生産よりやや複雑な「バス交通サービス」という財の生産を考えてみる。図5C、5Dを参照されたい。バス交通サービスは、通常はバス会社あるいは市営バスなどの公共企業体によって地域ごとに独占供給されている。このようなバス・サービス産業は、図5Dのように、地域別の縦割り構造になっている。  次に、図5Cは、バス・サービス生産の上下分離構造を示す。(バスという車両の生産でなく、バス車両を使用して供給される「バス交通サービス」の生産を考えていることに注意されたい。)まず、バス会社は、バス車両や車庫などの設備を保有し、それらのサービスからバス交通サービスを生産する。そのためには、バス運転手のサービス、バスの補修をおこなうメンテナンス・サービスに加え、ガソリンや消耗品の代価を支払わなければならない。さらにバス・ネットワークの管理・営業サービスが必要であり、それは経理業務に加え、路線バスの時刻通りの運行、バス車体の不時の故障や混雑による遅れの調整、運転手の配置・補充などを含む。図5Cのような上下分離構造は、他の運輸サービス、たとえば無線配車タクシーなどにも当てはまる。  実際にバス産業が図5Cのように上下分離構造になっているか、あるいは図5Dのように縦割り構造になっているかは、ケースによって異なる。管理・営業サービスは地域別に分かれているにしても、メンテナンスや故障修理は、下請けあるいは外注の形で横断型市場になっているかもしれない。ガソリン・消耗品については、広く横断型の競争市場が成立している。これに対し、運転手の雇用は、長期的には水平方向の移動によって横断型市場になっているかもしれないが、短期的には会社ごとの縦割り構造になっている。  本稿の基本的な視点は、大多数の産業において、その産業が上下分離構造に近いほど競争市場が形成されやすく、その結果、技術進歩に基づく製品・サービス改良、コスト切り下げが実現されやすく、産業の成長速度が速いということである。これに対し、産業構造が縦割りの場合には、それぞれの領域内で独占市場が形成されやすい。その結果、製品・サービスの価格が高水準に据え置かれ、需要が停滞し、技術進歩も遅れがちになる。もとより、これは、現実の複雑な産業構造・産業活動を単純化して述べたものであり、この議論がそのまま当てはまる場合は少ない。しかしながら、産業構造の類型として上下分離構造と縦割り構造を区別し、それぞれについて競争市場形成の可能性を考える意義は理解されるであろう。なお図6および7は、それぞれ「電力エネルギーとその使用」および「航空交通サービス」における上下分離構造を示す。 D.上下分離型の米国パソコン産業――競争市場と独占市場の併存  次に上記の議論を日米のパソコン産業に当てはめてみよう。前号で説明したように、米国においては、1980年代中葉に、IBMが同規格パソコンの独占市場を形成した。しかしながら、同パソコンの諸仕様がハードウェアおよびソフトウェアについて公開されたため、多数の互換部品メーカー、互換機メーカー、ソフトハウスが市場に参入した。これらのメーカーは、自己の得意とする部品、製品、システム、ソフトウェアなどの生産に特化し、分業の利益を最大限に発揮しながら他メーカーと競争し、技術進歩、製品改良、コスト引き下げを実現した。その結果、図8に示すように、ハードウェアからソフトウェアまでの各レベルにわたって上下分離構造が作られ、(少数の例外を除き)それぞれのレベルで競争市場が成立した。  図8は、米国のパソコン産業の構造を上下5層に分けて説明している。最下層は、ハードウェア部品・機器の生産である。多数の部品市場が成立しており、米国だけでなく世界各地に供給基地があって、その大部分が競争市場になっている。ただし、メーカーの特殊な技術に依存する部品市場は独占下にある。独占は、生産技術が高いこと、また製品が知的財産権(特許・著作権制度など)によって保護されていることから生ずる。最も顕著な独占市場は、インテルが供給するCPU市場である。CPUの価格は、パソコン・ハードウェア、ソフトウェア全体の価格のうちで大きな比重を占め(10%〜30%程度)、その影響は無視できない。  次に、図8の下から2番目と3番目の層は、パソコン本体や周辺装置を設計し、組み立てる仕事である。設計・組立は、いずれも高度の知的作業や注意深い工程管理を必要とするが、特殊なハードウェアのように、知的財産権などで保護される要素は少ない。このため、この層には多数の企業が参入して競争市場が形成されている。パソコン本体の組立については、米国内だけでも100〜150社程度のメーカーが競争しているとのことである。  図8の上2層は、いずれもソフトウェア生産である。上から2層目は、オペレーティング・システム(OS)で、この市場はマイクロソフトのほぼ完全な独占下にある。OSは、その上の層すなわちアプリケーション・プログラム(AP)に対して標準化されたインターフェースを提供する必要があり、(内部構造は別にして)インターフェースについて独自性を出す余地はほとんどない。また、OSはすべてのパソコンで使用されるため、その販売数が格段に大きい。OSの開発には多額のコストがかかる。他方、その「生産」はコピーによっておこなわれるので、規模の利益が極度に大きい。したがって、独占市場が成立すると、製品価格が高くない限り、市場に新たに参入することは困難である。IBMが当初PCの供給を開始したときに採用したマイクロソフトのオペレーティング・システム(MS-DOS)が、IBM-PCと同互換機の普及にともなって定着し、強固な独占市場を形成した。MS-DOSは現在にいたるまで数回にわたって改良されたが、すべて下方互換性が保証され、その結果、同社の独占市場はほぼ完全に維持された。(他OSの参入が皆無ではなかったが、市場シェアの点で問題にならなかった。)マイクロソフトは、他OSの参入を防ぐため、通常の独占価格より低いと思われる水準に同社のOS価格を設定しているが、それでもOSの独占供給から巨大な利潤を得ている。ただしOSの価格は、パソコン・ハードウェア全体の3%〜5%程度であり、同社の独占はそれほど強くユーザに影響しているわけではない。  図8の最上層は、アプリケーション・プログラム(AP)の市場である。プログラムの生産は、特定の仕事を実行する手順に関するアイディアと、それを実現するための(プログラム・記号の)コーディングに依存しており、優れたアイディアとコーディング技術があれば、少額の資本で容易に参入できる。このため、ソフトウェア市場は強度の競争市場となっており、IBM型パソコンについては、80年代中葉以降すでに10万種類を超えるアプリケーション・プログラムが供給されたと言われる。多くのアプリケーション・プログラムのうち、格段に優れた性能を持つプログラム、マーケティングに成功して多数のユーザを獲得したプログラムには、大量販売による規模の利益が作用し、その分野において独占あるいは寡占的な地位を獲得するものも少なくない。しかしながら、プログラム価格が高水準に設定されると、他ソフトハウスからの参入を招くので、独占・寡占的地位の継続は必ずしも容易ではない。アプリケーション・プログラム層全体としては、効果的な競争環境が実現しており、優れたアプリケーション・プログラムが大量に供給されている。その結果、パソコンの使い勝手は年々改良され、またパソコンによって実行できる仕事の範囲も拡大し、多数のユーザを引きつけることができた。米国におけるパソコン産業発展の一端は、競争環境にあるアプリケーション・プログラム市場が担ったのである。 E.縦割り型となった日本のパソコン産業――メーカー間の不完全競争とNEC9800市場  米国のパソコン産業が上下分離・横断型の競争市場となったのに対し、わが国のパソコン産業は、メーカーごとの縦割り構造をとった。図9を参照されたい。わが国のパソコン産業は、ハードウェア、OS、ソフトウェアを通じてメーカーごとの縦割りになり、それぞれのメーカーが少しずつ仕様の異なるパソコンを生産・供給した。パソコンが実行する仕事自体には、メーカー間で大きな差はない。しかしながら、たとえばN社のハードウェアを購入したユーザは、そのハードウェアを使うために、N社のOSとN社のOSに適合したアプリケーション・プログラムを購入しなければならない。年月が経ってハードウェアを新しい機種に買い替えるとき、すでにN社用OSとそのためのソフトウェアを保有しているので、それらを無駄にしないためには、同じN社のハードウェアを入手しなければならない。N社の新しいハードウェアは下方互換性があり、N社の古いハードウェアの機能をすべて持っているので、既存のOSとソフトウェアは新しいハードウェア上でもそのまま使用できる。次に、今度はソフトウェア(の一部)を買い替える、あるいは新しく買う場合にも、他社用のソフトウェアはN社のハードウェア上で使用できないので、同じくN社用のOSやソフトウェアを購入することになる。このようなハードウェアとソフトウェアとの結合関係を通じて、ユーザは一旦特定メーカーのハードウェアとソフトウェアを購入すると、結果的にそこに縛り付けられる。他社の製品に買い替えるには、それまで購入したハードウェアおよびソフトウェアを全部捨てて、ゼロから出発する必要がある。これを「ロックイン効果」と呼ぶ。  現在のわが国のパソコン市場のシェアの過半はN社によって占められているが、上記の「ロックイン効果」は、N社パソコンのユーザにも、またN社以外のメーカーを選んだユーザにも同様に成立する。N社と他社のパソコンの間には、シェアの大小に応じて、ハードウェアの価格・機能や、ソフトウェアの数において格差がある。したがって、N社以外のパソコンのユーザは、もし上記の「ロックイン効果」がなければ、価格の安い、かつソフトウェアが豊富なN社製品にシフトすることを望んだはずである。しかしながら、この「ロックイン効果」のために、また次節に述べる他の理由から、N社のシェアもある程度以上は増加せず、縦割り構造が続いた。  その結果、わが国のパソコン産業の成長は、米国と比較して遅れることになった。ハードウェアについては、メーカーごとに研究開発、品質改良の努力がなされたが、市場が縦割りであり、それぞれの市場の規模が小さいために、優れた製品を開発してもそこから十分な収益を上げることができなかった。したがって、研究開発に向けられる資金量も限られ、全体として技術進歩のスピードが落ちたのである。  また、アプリケーションについては、ソフトハウスは、各メーカーのOS・ハードウェアに適合するようにソフトウェアを作らなければならない。通常の場合、まず市場規模が最大であるN社パソコン用のソフトウェアが供給される。N社の市場で成功したソフトウェアは、他メーカーのパソコン用にも書き直され、供給される。それぞれのメーカーのパソコンの仕様が微妙に異なるので、機械的な書き直しができない。「書き直し」のコストは、当初ゼロから作るコストより小さいかもしれないが、ソフトウェア・コスト全体の中で無視できない。ソフトハウスが「書き直し」に余分のコストを支払わなければならないため、新製品の開発力が落ちたのである。1980年代中葉以降において、米国のIBM-PC仕様のパソコン用のソフトウェアが10万点以上発売されたのに対し、わが国においては、最大シェアを持つN社仕様パソコン用のソフトウェアでも、1〜2万点が供給されたにとどまった。両国の間に10対1近くの格差ができたのである。ユーザが入手できるソフトウェアの種類や数において、そしてまた平均的なソフトウェアの質において、両国間に数年程度の格差がついていると言われる。  以下においては、両国のパソコン産業のこのような格差をもたらした原因を明らかにするため、市場構造の相違が生じた理由を考えたい。 X.日米間のパソコン産業構造の差の生成理由 A.パソコン産業構造の変化の日米比較  本節においては、日本のパソコン産業が、産業の発展に適した上下分離型の競争市場構造をとらなかった理由について考える。前号第V節で述べたように、米国パソコン産業における上下分離・横断型市場は、あらまし以下のような経緯で成立した。まず1970年代後半に多数のパソコン・メーカーがそれぞれ自社仕様の製品を提供し、異なる仕様の製品間の(不完全)競争が始まった。1980年代前半にIBM仕様のPCが急速に市場シェアを取り、一旦は独占に近い市場が成立した。しかしながら、この市場に多数のIBM互換機メーカーが参入し、またソフトウェア市場でも多数のソフトハウスが参入して、上下分離型の競争市場が成立した。この過程において、IBM型パソコン全体のシェアは引き続き拡大し、他社仕様のパソコンは数年のうちに消滅してしまった。(ただし、グラフ関係の作業を得意とするアップル社パソコンだけは、IBM仕様パソコンの約10分の1の規模で生き残った。)  米国と日本のパソコン産業の構造変化を比較してみると、米国において生じた上記の変化が、わが国においては中途半端で終わり、最後まで進行しなかったことに気づく。日本においては、第1に、NEC仕様のパソコンのシェアが3分の2程度まで拡大して、同社と他社の製品格差が生じたにもかかわらず、他社仕様のパソコンは消滅せず、相当のシェア(それぞれ5〜10%程度)をもって生き残った。第2に、最大シェアをとったNEC仕様のパソコン市場には、わずか1社(エプソン)だけが参入したにとどまり、米国で生じたような多数の互換機メーカーの参入は、パソコン本体については生じなかった。(一部の周辺機器市場には多数の参入が生じた。)この理由の解明が本節の課題である。 B.NEC仕様パソコンの「不完全」独占  第1の点、すなわちNEC仕様のパソコンのシェアが100%にまで拡大しなかった理由、すなわち他社仕様のパソコンが生き残った理由はいくつか考えられる。まず、日本の企業は、自己の属する系列グループのパソコン・メーカーの機種を採用する傾向があった点を指摘できる。その理由は、第1に、企業が使用する汎用大型機が同一グループ・メーカーの製品であり、汎用機メーカーが供給するパソコンを使うと、汎用機とパソコンの結合が容易であることにあった。(このことは、わが国において異なるメーカーのパソコンを結合する汎用LANの発展が遅れたことの原因であり、また結果でもある。本稿においては、パソコン単体の生産・供給についてのみ考察し、パソコンをネットワークとして使用するための通信関係の技術や製品については触れない。これらについてもパソコンと同じく日米間の格差があり、パソコン本体の格差よりも大きい。)  次に、わが国の企業社会の「風土」により、技術的・経済的要因を超えて同一グループに属するメーカーの製品が購入される傾向があったことが挙げられる。この傾向はパソコンだけでなく、多くの製品・サービスについても観察されている。企業系列グループの存在意義(たとえばリスクの軽減)についてはいくつかの研究があり、系列内の取引関係が密であることが必ずしもすべて経済外的な現象ではない。しかし、パソコンについては、標準化と競争市場の利点が大きいので、系列グループの存在は同産業の発展のためのマイナス要因となった。  さらに、NEC仕様のパソコン(PC-9800型)のシェアの拡大が米国のように極端まで進まなかった理由の1つは、同市場が独占あるいは複占のままで終わり、米国のように上下分離された競争市場とならなかったことによる。米国においては、競争の進展によってIBM仕様パソコンの価格の下落と性能向上が急速に進み、短期間のうちに他社仕様のパソコンと大差がついてしまった。これに対し、日本においては、最大シェアを持つPC-9800市場が独占・複占のまま続いたので、高価格が維持され、また性能向上もそれほど急速には進まなかった。したがって、NEC以外のパソコンのユーザが、NEC仕様のパソコンに乗り換える動機が米国と比べて弱く、他社仕様のパソコンが1990年代まで生き残ることになったのである。 C.NEC仕様パソコン市場への「不完全」参入  日本のパソコン産業の構造のもう1つの特色は、PC-9800市場への新規参入がエプソン1社だけで終わり、米国のような多数メーカーの参入が生じなかった点にある。この点については、特許権や著作権などの知的財産権の制度やその運用の仕方が影響を与えた。パソコン市場の独占は、独占企業の技術やノウハウがすぐれていて他社が容易に追随できないことから成立している場合もあるが、多くの場合、パソコンの中心に位置する部品が知的財産権によって保護されていることによって成立している。以下において、これらの点について日米比較をおこなう。  まず、知的財産権の法律条文自体には、日米間でほとんど差がない。特許権や著作権関係の法律は、長い間国際的な標準化・均一化の努力が続けられており、その結果、先進国はおおむね同一内容の法律を持つようになっている。(もちろん、法律の細部や運用の仕方においては差があり、最近のガット・ウルグアイラウンド協議対象の一部にもなった。)とりわけ、コンピュータ関係の知的財産権法、半導体レイアウト保護法やプログラム著作権法などは、1980年代中葉の米国「ヤング・レポート」後に開かれた日米協議の結果に基づいて作成・改訂されており、両国はほとんど同一条文の法律を持っている。日米間のパソコン産業への新規参入の程度の差は、知的財産権法の差から生じたのではない。実際に影響を与えたのは、法律の条文ではなく、法律の運営方法の差、すなわち米国においては裁判所の判決、日本においては裁判所の判決(あるいはその欠如)を含む全般的な社会的風土であった。この点を明らかにするために、米国の事情をより詳しく見よう。 D.米国における互換機メーカーの参入と知的財産権  米国IBMは、1980年代中葉に同社仕様パソコンのインターフェース(バス仕様やキーボード、ディスプレイ、固定ディスクの接続仕様)を公表し、周辺機器メーカーの参入を認めた。しかしながら、パソコン本体、とりわけその中心部品である基本入出力システム(BIOS)については著作権による保護を求め、IBM仕様パソコンの供給独占を継続しようとした。同パソコンの互換機メーカーはBIOSを自社で生産し、あるいは、BIOSを同専門メーカーから購入して市場参入を試みた。IBMは、これらの互換BIOSの生産が同社BIOSの著作権を侵害しているとして、互換機メーカー、BIOSメーカーを何度も提訴してきた。(1993年1月には、日本の京セラのIBM型パソコンのBIOSが著作権侵害で提訴されている。)  これらの提訴に対し、1980年代後半における裁判の結果、第三者によるIBM仕様パソコンのBIOS生産について、いわゆる「クリーン・ルーム方式」が認められ、同方式にしたがう生産は、IBMの著作権を侵害しないとする判決が確定した。「クリーン・ルーム方式」とは、以下のような手続きによるBIOS(一般には半導体チップやプログラム)の生産を指す。IBM仕様BIOSの生産を計画する企業は、まず同BIOSの機能を知る必要がある。BIOSは、現在ではROM(読み出しのみ可能、すなわち書き込み不可能のメモリ)で供給されるが、ROMに入っているプログラムの内容や働きを組織的に解析するのである。これを「リバース・エンジニアリング」という。次に、リバース・エンジニアリングにたずさわった技術者とは全く別の技術者が、リバース・エンジニアリングの結果判明したBIOSの機能に関する情報のみを使って(すなわちBIOSの内部構造に関する情報は使わないで)、同一機能を持つ別のプログラムを作成する。このとき、リバース・エンジニアリングにたずさわった技術者と新たにプログラムを作成する技術者との間には、情報的に何らの連絡もあってはならない。この意味で、BIOSを作成するエンジニアは、情報的に「クリーン・ルーム」に入っていなければならない。  米国においてこのような「クリーン・ルーム方式」が認められた結果、先行企業が設計・供給したプログラムや半導体と同機能の製品を、後発企業が生産する途が開かれた。この方式は、BIOSだけでなく、他の多くの製品、たとえばインテルCPUの互換メーカーにも適用されている。クリーン・ルーム方式によってIBM様式のBIOSを生産する企業が、実際に数社出現しており、これに加え、大手の互換機メーカーは自社で同BIOSを生産している。大部分の互換機メーカーは、これらのBIOSのいずれかを購入してIBM仕様のパソコンを組立て、市場に販売しているのである。 E.セイコー・エプソン社のNEC型パソコン市場への参入  日本の場合には、NECのPC-9800方式のパソコン市場において、1987年にエプソンが自社で開発したPC-9800方式BIOSをもって参入を試みた。NECは当初これに対し、エプソンの同BIOSが自社BIOSの著作権を侵害しているとして出荷差し止めを提訴した。当時の新聞報道によれば、エプソンはNECの提訴に対し、当初供給しようとしていたBIOSの出荷をとりやめ、自社で開発した別のBIOSによってNEC互換機を供給することを発表した(日本経済新聞1987年4月24日[産業1]欄)。その後、NEC、エプソン両社は同訴訟について和解に達し、(未公表の条件の下に)NECは提訴を取下げ、エプソンはPC-9800仕様市場への参入を果たした。  BIOS生産に関する訴訟において日本が米国と異なっている点は、互換メーカー(上記ケースにおいてはエプソン)BIOSについて、適法な生産と不法な生産を区別する明確な基準が確立されなかったことにある。NECとエプソンの和解内容は公表されず、また、裁判所もこの点に関する明確かつ具体的な判断を示さなかった。その結果、エプソンの参入後も、PC-9800市場への合法的な参入の方法は不明確のままで残り、結局他社による同市場への参入は試みられなかった。安易な参入が不法行為となることをおそれたからであろうと推測される。1994年初頭にいたるまで、同市場はNECとエプソンの複占下にあった。  日本のパソコン市場とりわけNECのPC-9800型パソコン市場が、米国IBM型パソコン市場と異なった構造をとった理由については、上記以外に多くの解明すべき課題が残っている。パソコン本体は複占市場となったが、周辺機器やソフトウェアまで含めると、事情は必ずしも同一でない。たとえば、同機用のハードディスク・ドライブ(HDD)については、PC-9800型パソコンの発売後数年間は、本体と同じくNECが独占的に供給していた。しかしながら、1980年代末ごろから互換機メーカーの参入が始まり、わが国におけるHDDの性能価格比は急速に上昇した。NECは、PC-9800のBIOSを著作権によって保護したが、バス接続仕様については、IBMに倣って当初からこれを公開していた。HDDはバスに接続する制御ボードを通じてパソコン本体から使用されるので、その意味では9800型パソコンについても、当初から互換HDDメーカーの参入は可能であった。しかし、1980年代中葉のわが国において、HDDの生産技術は大型機メーカーしか保有していなかったので、中小企業である互換メーカーの参入には時間がかかった。80年代中葉から同年代末にかけて、米国の中小企業の間でHDDの技術が急速に発達し、IBMパソコンの互換機市場で大量の参入を生じた。この技術が数年後わが国に輸入され、また外国HDDメーカーの日本支社も設立されて、わが国のHDD市場は競争市場となった。他の入出力機器や消耗品、たとえばキーボードやフロッピー・ディスクについても、ある程度の競争市場が成立している。  NECのPC-9800仕様パソコンについては、もしわが国で米国と同様に「クリーン・ルーム方式」が確立していたならば(今後確立されれば)、はたして多数の企業が同市場に参入したであろうか(今後において参入するであろうか)が問題となる。これに答えるためには、より立ち入った研究が必要である。 Y.パソコン産業と企業組織 A.製品としてのパソコン(本体)の特色  前節の議論から、日米間のパソコン産業構造の差が両国間の製品格差をもたらしたとする筆者の主張が理解されたと思う。しかし、なお問題は残っている。前号冒頭に述べた疑問を思い出していただきたい。それは「日本の企業は自動車や家電、オフィス機器(ファクシミリ機など)の生産で成功し、優れた製品を安い値段で世界に供給した。ところが、これらの市場は上下分離構造でなく、企業ごとの縦割り構造になっている。自動車はともかくとしても、パソコンは大衆市場を目標にした小型の電気製品であるという点で、家電製品・オフィス機器と類似している。それにもかかわらず、日本企業がパソコンにおいて成功しなかったのはなぜか?」  この疑問に答えるためには、パソコンという製品の性質をよりくわしく調べる必要がある。そのため、図10で、パソコン本体(ハードウェア)、同(ソフトウェア)、自動車、および家電製品が比較されている。また、パソコンの重要な部品である半導体(CPUとメモリ)についても、参考のために比較をおこなっている。比較の視点としては、製品の改良、需要の増大、そして産業成長の諸点にかかわる項目が選ばれている。(他の項目、たとえば資本労働比率・収益期間などは省略されている。)  図10の項目を全体として眺めると、PC本体ハードと同ソフトの性質は比較的似ており、これに対して家電製品は、PC本体よりもむしろ自動車に近い性質を持っていることがわかる。パソコン・ハードウェアは小型の電気製品として家電製品と似ているように思えるが、実はその性質は相当に異なっているのである。また、半導体(CPU、メモリ)は、製品構造と研究開発のパターンにおいて自動車・家電と似た性質を持っている。以下図10の項目について、少しくわしく見てみよう。  図10に挙げられた最初の4製品(PCハード、ソフト、自動車、家電)は、いずれも組立型の製品である。しかし部品の物理的性質は、製品間で大差がある。特にPCソフトの部品は、他と異り「情報(プログラム)」そのものである。それにもかかわらず、これらの4製品は、それぞれがある程度独立した部品から構成されており、多数の部品をその性質に応じて組み立て、部品全体が統合されて製品としての働きを生み出す点で共通点を持っている。  しかしながら、部品相互間の関係、すなわちインターフェースは、PCと自動車・家電製品の間で大きく異なっている。パソコンにおいては、ハードウェアについてもソフトウェアについても、部品間の結合度が弱く、1個の部品を(たとえばより性能の高い)別の部品で置き換えることは比較的自由にできる。その結果、部品間の性能のバランスに変化が生じても、製品全体として大きな問題にはならない。(たとえばPCハードにおいてメモリが高速化されれば、それだけメモリ関係の仕事の効率が上がり、ディスクが大容量高速のものに置き換えられれば、ディスクを多用する仕事の効率が上がる。)これに対し、自動車や家電製品においては、部品間の結合度が強い。たとえば自動車については、部品規格がメーカーごと、モデルごとに決まっており、一部の部品だけ高級なものに取り替えることは、不可能ではないが、大部分の部品については考えられていない。家電製品については、故障した部品を同一部品で取り替えることはあっても、部品取り替えによって部分的なグレードアップをおこなうことは皆無である。したがって、自動車や家電製品については、各部品の耐久年数が揃うように設計されており、予定された使用期間が終わると製品全体が廃棄されることになる。これに対し、PCについては、部品ごとの使用期間に差がある。なお半導体は、情報を取り扱うという点でPCハード、ソフトと似ているが、組立型の製品ではなく、当初から一体化されて生産される。その点では、PCよりも自動車・家電に近い。  このように、製品を構成する部品が比較的自由な取り替えを許すか否かが、PCと自動車・家電製品・半導体との大きな差になっている。PCにおいては、ハードウェアについてもソフトウェアについても部品取り替えを可能にするため、部品間のインターフェースが標準化されている。インターフェースの約束を守って製造された部品は、メーカーの如何にかかわらず組み込むことができる。これに対して、自動車・家電製品においては、故障時の取り替えを除いて部品の入れ替えは最初から考えられていない。したがって、(タイヤやバッテリーのような少数の消耗品を除いて)部品間のインターフェースは標準化されていない。(ただし、設計・製造コストの節約のため、単一メーカー内で、異なるモデルの部品が標準化されることはある。)  上記を別の言葉で述べれば、PCはハードウェアについても、ソフトウェアについても、外見上は単一の製品に見えるが、実は単一ではなく、複数の製品(部品)の「連合体」になっている。これに対し、自動車・家電製品・半導体は、文字どおり単一製品としてまとまっている。  このような「部品の緩やかな連合体」としてのパソコンの特質はどこから生ずるのであろうか。多くの読者は、パソコンが情報処理を目的としているからであると答えるかもしれない。しかし、これは正しくない。テレビやファクシミリやVTRのように、家電製品・オフィス機器にも情報処理を目的とするものは多い。これらの製品は情報を取り扱うが、ほとんどすべての場合、一体化されており、部品を少しずつ取り替えてグレードアップさせることはおこなわれない。パソコンとこれらの製品との間の差は、前者が情報処理のための「汎用機器」である点にある。すなわち、パソコンにおいては、ソフトの取り替えによって異なる仕事を実行できる。これに対し、テレビ、ファクシミリ、VTRは、それぞれあらかじめ定められた種類の情報処理だけをおこなう。  パソコンが部品の取り替えによるグレードアップを許し、それによって生ずる部品性能のアンバランスを受け入れることができるのは、パソコンが汎用情報処理機器であるからである。複数の仕事のうち、与えられたそれぞれの仕事に応じて一部の部品がその性能を発揮し、複数の仕事全体にわたって考えれば、部品間の性能のアンバランスが平均化される。これに対し、自動車・家電製品においては、仕事が単一であるため、部品は常に同一の仕方で製品全体の仕事に貢献している。一部の部品だけをグレードアップさせても、その効果は他の低グレードの部品によって打ち消され、全体としての能力向上は実現されず、グレードアップによるコスト増だけが欠点として出てくることになる。したがって、一部の部品だけを改良することは得策でなく、製品全体が一体として設計・生産されることになる。  このような製品構造の特色は、図10の研究開発(R&D)の特色にも反映されている。パソコンにおいては、部分的なグレードアップ・改良が意味を持つので、研究開発は、個人あるいは少人数のチームによって部品ごとにおこなわれることが多い。これに対し、自動車・家電製品においては、部品間のバランスが重要であるため、多人数のチームにより、緊密な連携の下に、全部品にわたるバランスのとれた研究開発が必要である。半導体については、その必要はさらに大きい。自動車・半導体においては製品単価が高いため、新モデル・新製品の開発は、多人数のチームによって集中的におこなわれる。家電製品においては、自動車・半導体に比較して開発費用が低く、また製品種類が多数にわたるので、最初からある程度の「当たりはずれ」を勘定に入れた研究開発(新製品の設計)がおこなわれる。したがって、自動車産業・半導体産業におけるほどは研究開発活動が集中していない。 B.企業組織と製品特色  読者はすでにお気づきであろうが、上記のような製品特色の比較から、自動車・家電製品・半導体は日本型の企業における研究開発および生産に適していると言うことができる。日本型の企業は、会社ごとのまとまりが強く、社内の統制がよくとれており、社内コミュニケーションも円滑に進む。社員がチームを組み、緊密な連携の下に新製品を開発し、また製造技術に磨きをかけるために適しているのである。日本型の企業においては、製品開発はもとより、生産段階においても、材料・部品の調達、組立、流通・販売に至るまで実質上系列化されていることが多く、それぞれの系列の中で各ステップが効率化されている。競争相手の企業系列との交渉はほとんどない。*1 自動車・家電製品や半導体のような一体化された製品は、上記のような日本企業において最も効率的に生産される。たとえば、自動車については、部品生産を受け持つ下請け企業も、製造プロセスの側面では実質的に親企業の中に組み込まれている。(親企業と下請け企業が区別されているのは、製造プロセスにおける便宜のためでなく、賃金格差、労務管理などの別の要因による。)親企業と下請け企業の関係を断ち切り、自由な「部品市場」を作って、親企業が最も安価な、優れた部品を購入することは考えられないではない。しかしながら、そのような方法では、品質管理や生産管理等について、親企業と部品供給企業との間の交渉の手間(経済理論におけるTransactions Cost)が増大し、有利な結果は必ずしも得られない。家電製品・半導体メモリについても、同様の傾向が見られる。なおパソコン用CPUの生産においてわが国の企業が米国企業に後れをとっているのは、回路設計技術の差(および「ロックイン効果」)による。  上記のことを逆に述べれば、垂直統合された日本型の企業組織は、パソコン本体の生産には適していない。パソコンにおいては、部品間の結合がゆるく、一部の部品の改良がそれ自体のメリットを発揮する。したがって、米国のパソコン産業に見られるように、部品市場を企業組織から分離させ、部品単位の取引を実現することが有利である。すなわち、それぞれの部品について、メーカーは、自己のために最も有利な条件を提供する相手と取引することが望ましい。部品間の結合が緩く、また標準が成立しているので、他企業から部品を調達して組み立てても問題は生じない。したがって、企業間の取引コストも増大しない。この理由で、パソコンの生産においては、企業間に開かれた市場が産業成長のために威力を発揮する。(実際わが国においても、1992年ごろから、パソコン・メーカーによる輸入部品の使用が増加しているとのことである。)  垂直統合された日本型の企業がパソコンの生産に従事するときには、研究開発能力の不足という不利を被むる。研究開発と部品生産をすべて自社内でおこなうときには、研究開発に振り向ける資源をすべて自社で負担しなければならない。部品市場が開かれていれば、国内で(あるいは世界中で)最も優れた研究開発の成果を利用できる。しかしながら、自社開発の場合には、社内という限られた範囲内で最も優れている研究開発の成果しか利用できない。産業全体の観点から言えば、企業が縦割り構造になっているため、研究開発能力が企業ごとに分断されるのである。自動車・家電製品の場合には、部品間のインターフェースが強いために、パソコンのように外部市場から部品を調達する利点が少なかった。パソコンの場合には、同じ理由で外部から部品を調達できないことが生ずるマイナスが大きいのである。  日本型の企業組織が、自動車・家電製品・半導体メモリの生産において威力を発揮した反面、パソコンの生産においてはマイナス要因となった理由は上記のとおりである。 Z.結論 A.パソコン産業  以上、本稿においては、日米のパソコン産業が、当初同一の技術水準から出発した「一卵性双生児」であったにもかかわらず、両国の産業環境と企業組織の相違により、1993年の時点で大きく異なった産業構造とパフォーマンスをもたらした点について説明した。1992年秋から米国製IBM型パソコンの日本市場への流入が始まり、日本のパソコン市場は、従来のように外部から隔離された市場ではなくなった。最近この傾向はさらに加速して、両国のパソコン市場は一体化され、IBM型パソコン(日本のDOS/Vパソコン)と、NECのPC-9800型パソコンとの間にシェア争いが繰り広げられつつある。他方、多機種上で横断型に使用できる新しいOS(Windowsなど)が出現し、今後における日本市場での両機種間の競争は、1980年代におけるIBM互換機メーカー間の競争と類似したものになるものと考えられる。その結果は予断を許さないが、上記の意味で両機種の市場が一体化すれば、すでに米国だけでなく世界各国の市場(非英語圏の韓国や中国も含む)で標準となっているIBM型パソコンが有利になる可能性が大きいと予想される。  したがって、将来においては、日本のパソコン市場が従来のように独占あるいは複占に近い市場となり、その発展が遅れることはもはや生じないと考えられる。過去10年間のパソコン産業の発展からわれわれが学ぶ点は、産業が縦割り構造になったとき、独占の成立、研究開発の停滞、高価格と需要の伸びなやみなどの望ましくない結果が生じ易いことである。とりわけ、先端技術産業においては、それぞれの製品の仕様が知的財産権による保護と密接に結びつくため、縦割り型の産業構造が生じ易い。  そもそも知的財産権、とりわけ特許権は、新しい発明・発見の結果作られた製品が初めて供給され、その市場規模が小さい期間において、発明・発見者を保護するための制度であった。市場規模が小さいので、独占を許しても社会全体に与える害は少ない。発明・発見者は、独占が許されている間に利益を保証され、市場規模が大きくなるころには、特許権の期限が到来して独占市場は解消される。これが知的財産権制度が予想した本来の経過であった。ところがパソコンなどの先端技術産業の製品については、(「ロックイン効果」などにより)知的財産権制度に関する上記想定が成り立たない。知的財産権制度は、規模の小さい市場における独占だけでなく、大規模市場の独占、長期にわたる独占を許す結果を招いている。これは、技術の発展に知的財産権制度が追いつけないことから生じた事態である。将来における先端技術産業のための望ましい知的財産権制度について、より一層の検討が必要である。  日本においては、知的財産権関係の事情だけでなく、企業組織の「特色」が上下分離・横断型の市場を成立させない方向に働いた。日本はもともと「縦型社会」であり、組織が上下方向に成立しやすく、横断型の人間関係や取引関係は成立しにくい。パソコン部品の生産についても、日本においては、メーカーがまず自社内で生産・調達を試みる。外部の下請けメーカーに発注する場合でも、安定した取引関係を望み、価格・品質だけで広い範囲から仕入れ先を決めるとはかぎらない。日本のパソコン産業の構造は、わが国企業組織の特色にも影響されて成立した。これが実際にどの程度の影響力を持ったかについては、より立ち入った調査と研究が必要である。 B.「マルチメディア機器」産業  前号第T節のCで述べたように、現在の時点でパソコン産業を分析することの意義は、将来におけるマルチメディア産業の発展に資することである。マルチメディア機器は、家庭生活やビジネスにおけるわれわれの情報活動を、複数の情報伝達手段(動画、音声、文字、図形など、すなわちマルチメディア)を使って援助するための用具である。手短に言えば、それはパソコンとテレビが一体化し、これにさまざまな入出力手段が付せられ、新世代通信網に接続されたものである。  マルチメディア機器が、情報処理・伝達のための「汎用機」として供給されることは確実であろう。家庭においてもオフィスにおいても、情報活動の種別ごとに異なるハードウェア(単能機)を備えることはまず考えられないからである。この理由でマルチメディア機器は、機能的にはテレビよりもパソコンに近いであろう。実際には、現在のパソコンをベースとし、その機能を拡張する形でマルチメディア機器が開発・生産されると予想される。過去におけるパソコン産業の経験が、将来のために有用であるのはこの理由からである。  上記の観点から、将来のわが国のマルチメディア産業の発展のために重要と考えられる問題点を列挙しておこう。 1.知的財産権とその運用方法の整備 2.機器とりわけ部品間のインターフェースの標準化 3.日本型企業組織の特色から生ずる問題点の解決  上記の3点は、マルチメディア産業発展に必要な競争市場の環境整備にかかわる。これらの諸点について、産業全体の立場から(たとえば公的政策の形で)、何らかの手が打たれる必要がある。企業単位の合理的行動(利潤追求行動)だけからは、上記問題点の解決は難しい。わが国の情報産業の発展の過程で、1960−70年代におけるメインフレーム・コンピュータの生産については、政府の手厚い保護とリードがあった。これに対し、パーソナル・コンピュータ産業の成長過程では、特段の政策は取られなかった。本稿の結論は、将来のマルチメディア産業については、パソコン産業のような「放置政策」は望ましくなく、「マルチメディア産業環境(新情報産業環境)」を整備するための政策が必要であるということである。その具体的な内容や手続きの研究は、今後の課題である。 「パーソナル・コンピュータ産業の経済分析――マルチメディア産業の発展のために」下(日米パソコン産業の構造比較)、『経済セミナー』、No.473、1994年6月、pp.42-53(一部改訂:1998年12月)。