平成7年「通信白書」(第1部第2章第3〜4節)(「情報通信経済の動向、経済活動と情報通信」)へのコメント 鬼木 甫1 (中京大学経済学部教授、郵政研究所特別研究官) 1.情報通信経済分析の採用  平成7年通信白書(以下「白書」)の体裁・内容は、従来に比べて大幅に改革された。A4判の大型本となって本文の分量が倍増したこと、カラー・グラフや図表が増えて読みやすくなったことに加え、多くの新トピックが取り上げられている。本コメントの対象である第1部第2章第3・4節のうち、第3節「情報通信経済の動向」(以下「3節」)は、前年までの形式を踏襲しているが、新設の第4節「経済活動と情報通信」(以下「4節」)では、計量経済分析手法と成果を取り入れる試みがなされている。評者は当分野の専門家としてこの試みを歓迎し、次年度以降の改良・発展に期待したいと思う。  通信白書は、当初政府当局による現状報告と、政策・予算措置の説明を主な目的としていたが、最近になって、通信分野に関する一般向きの「テキストブック」あるいは「リファレンス・ソース」を目指すようになってきた。実際に「白書」がこれにどの程度成功しているかは別にしても、最近一両年間の「白書」の成長は、作成当事者の意気込みを感じさせる。計量経済分析の採用も、この方向に沿う試みの1つであろう。一般読者を対象とする白書に専門分野の研究手法・成果を取り込むことには、どのような意義や問題があるだろうか。  「白書」特に第1部「情報通信の現況」の主な内容は、統計資料による情報通信分野の現状報告である。少し唐突なたとえだが、他分野たとえば健康・医療分野で言えば、それは身体計測・体力検定や、各種の検査による身体状況の把握にあたる。これらの計測・検査結果に基づいて身体各部の機能を判断し、健康な生活のための助言をおこない、またもし身体に変調があればその原因をつきとめ、病名を確定し、適切な治療法を選定するのは、専門家である医師の役目である。近年一般の医療知識が向上し、健康への関心が高まった結果、従来は専門の医師だけが持っていた多くの知識が、一般人にも入手可能になってきた。患者はもはや医師の言葉を鵜呑みにせず、身体の機能や病気の原因をある程度まで自分で理解した上で、医師と協力して、健康を保ち、病気の治療に努めるようになった。これは望ましい変化である。  「白書」は、もとよりわが国情報通信分野の現状報告や「計測・検査結果」を含む。これに対し、計量経済分析は、医療の分野で言えば、計測・検査結果の専門的な分析にあたる。もとより情報通信の計量経済分析は、まだ医学よりも遅れている。また、医療では、各個人の身体状況が問題であるのに対し、情報通信では、情報通信産業をめぐる社会経済システムが関心の対象であり、両者は同じではない。しかし、一般向きの情報と、専門家による分析結果の併存という点で両者は似ている。  専門家の分析結果を一般向きに提示するときに問題となるのは、内容の当否のチェックが困難なことである。「白書」のスペースには制限があるから、「4節」には計量経済分析の内容は大部分省略され、最終的に得られた結果だけしか述べられていない。また、もしスペースが十分で、分析方法や使用データがくわしく説明されていたとしても、内容が専門的なので、一般読者がこれをチェックすることは不可能に近い。チェックは専門家によるほかはない。  医療の分野では、医師による診断行為に、2種類のチェックがある。多数の症例が出ている「普通の」病気の場合は、個々の医師が自分の責任で診断を下し、処置を選ぶ。チェックは、誤診など例外的な場合にだけおこなわれる。他方、「難しい」病気、稀な病気の場合は、他の医師の意見を求め、責任を限定した上で診断・処置する。また新しい先端的な診断方法や治療法を試みた場合には、その結果が学会などの場で公表され、批判・評価を受ける。現在普及している診断法や処置も、それが開発された当初は、先端的なものとして学会等で提示された。専門家による多数のチェックを通って生き残った診断法や処置が、現在の医療技術を形成している。もちろん、チェックを通らないで消滅したものも多い。それは、おそらく生き残ったものの何十倍・何百倍に上るだろう。このことからもわかるように、「失敗は成功の母」である。一般に新しい知識や技術は、成功したケースをはるかに上回る数の失敗ケースによって支えられている。この点から見れば、学会誌や専門誌の内容の大部分は、そのような「失敗ケースの記録」である。  もし医療の分野で専門家によるチェックがおこなわれず、個々の医師や少数の師弟グループの経験と判断だけに頼って医療がおこなわれていたら、どうなっていたであろうか。近代医学の進歩ははるかに遅れ、医師に対する盲信はあっても、現在われわれが持っているような医師への信頼は生まれなかったであろう。  情報通信の計量経済分析は、医学に比べるとまだ未発達である。加えて、医療技術のように病気を治癒できたか否かという直接のチェックがなく、専門家間の批判基準も不明確な点が残っているので、医学・医療技術のようなはっきりした基盤は形成されていない。その結果、情報通信の計量経済分析では、基礎的な分析と先端的な分析の中間に位置する仕事が多い。しかしそれでも、専門家によるチェックはおこなわれており、信頼できる分析手法を確立する努力が少しずつ積み重ねられている。  今回「4節」に収載された分析結果の多くも、基礎と先端の中間に位置している。したがって、その信頼性を担保するためには、専門家によるチェックの道が開かれている必要がある。実際にチェックがおこなわれるか否かとは別に、チェックしようと思えばできる体制をつくっておくことが、提示内容の信頼性を増すのである。逆に分析結果をチェックしようとしても容易にできないことは、「疑心暗鬼」と言うように、実際に成功している分析結果についてもその信頼性を損なうことになる。  また、先端的な要素を含む分析については、ある程度の失敗が入り込む可能性を認めなければならない。失敗の出ない分析は、独創性を欠いた安全一方の仕事であり、先端的分野では価値が低いのである。一般に、どのような仕事でも、その成果について、「安全性」と「新規性」という2要素を持っている。安全性とは、与えられた目的を、失敗や事故をおこさずに「無事に」達成することである。新規性とは、将来の発展の礎石となるために、新しい目的や手法に挑戦することであり、当然それは失敗の危険をともなう。安全性と新規性は互いに相反する要素であり、双方を満足する仕事は通常はあり得ない。  ところで「白書」には、安全性を重視するべき項目と、新規性を重視するべき項目の双方が入っている。「白書」が本来持っている性格から、大部分の項目については安全性を重視するべきであろう。今回の「白書」は、安全性でなく新規性を持ついくつかの項目を新たに導入する試みに踏み切った。「4節」の内容は、「白書」の中では新規性が最も強調される項目に属する。この試み自体の是非は、将来の「白書」の性格付けとの関連において別の場で議論されるべきことであろう。ここで強調しているのは、新規性を重視する項目を採用する以上は、それに適した取扱い、すなわち専門家によるチェックの道を開く措置をとるべきであるということである。 2.情報通信事業への支出等の経済波及効果  「3節」1項(3)に、産業連関分析の手法を用いて、情報通信事業等への支出の経済波及効果が計算されている。ここで経済波及効果とは、政府予算支出や企業投資が他産業に及ぼす波及需要(たとえば移動通信用鉄塔施設整備事業は、鉄塔建設への需要を引き起こし、そこから鋼材など鉄塔の原料への需要を生じ、さらにそこから鉄鉱石や電力・石炭などへの需要を生ずるというように、当初の支出が細分されながら、次々と他産業に波及すること)を意味する。情報通信の場合には、波及需要の合計と当初支出の比、すなわち誘発係数が2.0程度であること、つまり当初支出の2倍程度の国内生産が誘発されることが示されている。  この作業自体に批判するべき点はないが、計測結果の意味について何も述べられていないのは物足りない。財政支出や設備投資の経済波及効果が問題になるのは、わが国マクロ経済の総需要調整に関してであろう。現在のような不況時には、波及効果に関するかぎり、誘発係数が大きい対象に財政支出を振り向けるべきであり、また逆に好況時には、誘発係数が小さい対象に向けることが望ましい。好況・不況の変動をなるべく平準化するためである。したがって情報通信分野の誘発係数2.0が、他の支出対象に比べて大きいのかあるいは小さいのかという点が問題となる。たとえば建設関係の公共事業や研究開発分野の誘発係数と比較してみることが望ましい。 3.通話料の低廉化、電話機の価格低下による消費者余剰の増加  「4節」には、計量経済分析の結果がいくつか提示されている。そのうちで読者に注目されやすいのは、電話通話料の低下や、電話機(電話端末)の価格低下がもたらした利益(消費者余剰)の計算値であろう。「4節」2項では、通話料の低下によって1加入者あたり過去9年間に53,000円(月あたり440円)が、また電話機の価格低下によって1世帯あたり9年間に1万円(もし3年に1台新たに電話機を購入したとすると、月あたり270円)の利益を受けたことになっている。読者の多くは過去の経験に照らして、これらの結果にかなり納得されるのではないかと思う。ただし、ここでは、電話サービスや電話機の「質的変化」が無視されている点に注意されたい。電話サービスが多様化したことや、多種類の高機能電話機が出てきたことから受ける利益は、これらの金額には入っていない。質的進歩を金額に換算するのは難しいが、もし実行したとすると、上記の結果、特に電話機の価格低下の利益はさらに高くなるはずである。  消費者余剰の計算は、データや処理方法によって、異なる結果を生ずる。「4節」白書に報告されている分析では、消費者余剰計算の基礎となる需要関数を時系列データによって推定していると考えられるが、もしこれを(より望ましいとされている)クロスセクション・データによる推定で置き換えると、結果は異なるはずである。ごくラフに言えば、通話料低下による消費者余剰増加分440円という計算値が、300円台に変わったり、600円台になったりすることがあり得る。現在の計量経済分析では、このようにかなりの誤差を含む分析結果しか与えることができないのである。したがって、ここでの消費者余剰の大きさの実感を得るためには、電話サービスや電話機だけでなく、他のサービスや機器、たとえば交通費や電気代、あるいは食費・教育費などからの(時系列需要関数ベースの)消費者余剰と比較してみることが望ましい。また電話機については、冷蔵庫や空調機など他の電気製品、あるいは自動車等の他の製品について消費者余剰を計算し、これと比べてみることが望ましい。 4.経済構造の変化と情報通信産業  「4節」3項(1)(3)では、社会経済環境あるいは産業構造の変化が、情報通信産業に及ぼす影響が試算されている。第1に、産業の空洞化(製造業の対外直接投資の増大)による国内需要の減少の影響は、情報通信産業では他産業よりも少ないことが結論されている。また、経済成長と同時に生起したサービス化(第三次産業のウェイトの増大)は、情報通信産業に対しては他産業よりも強く影響することが示されている。いずれも産業連関分析の応用であり、それぞれについて見れば納得できる結果であろう。  しかしながら、産業の空洞化と経済のサービス化は別のことではなく、同一現象を2通りの側面から見た結果である。少なくとも、サービス化の一部は、産業の空洞化に伴って生じている。より広い見地からすれば、この両分析は、わが国の産業構造の変化が、情報通信産業にどのような影響を及ぼすかを扱っていることになる。したがって、空洞化が加速して、国内製造業の生産額が減少しても、反面においてサービス化が加速すれば、情報通信産業に及ぼす影響はプラスになるかもしれない。何らかの方法で両分析を統合することが望ましい。サービス化の分析は、昭和60年と平成2年の差すなわち過去の現象について実行されているが、類似の方法を使って、将来の経済成長と産業構造の変化が情報通信産業に及ぼす影響を試算することもできる。これらの両分析を統合発展させ、将来のわが国経済の可能なケースについて、情報通信産業への総合的影響を試算することは興味のある課題である。  なお、空洞化分析の末尾に、産業の空洞化と情報通信産業の将来に関する予想が述べられている。「3・4節」の叙述がほとんどすべて資料や分析結果の提示だけに終わっているのに対し、この部分の叙述は将来の予想にまで踏み込んでいる点、注目される。(「白書」では主観的な論述を避ける傾向がある。しかし、資料や客観的な分析結果と区別して述べるかぎり、主観的論述は議論をまきおこし、読者の知見を深めるきっかけとなり、「白書」を興味深い読み物にすることに役立つ。)そこでは、産業の空洞化、すなわち、わが国生産活動拠点の海外への移動が、国際通信を活性化させることを指摘し、また同時に、空洞化によって生ずる国内資源(労働力)の解放(雇用の減少)分が、高成長経路をたどっている情報通信産業によって吸収され、望ましい結果を生むとの予想が述べられている。(もっとも、電気通信事業者の生産性とりわけ労働生産性の向上は、労働需要の伸び悩みを意味し、上記趣旨とは逆の効果を生じる。)この指摘は、わが国情報通信ハイウェーの建設を促進するべきであることの理由の1つにもなっており、興味深い議論である。より立ち入った分析・検討が望まれる。 5.次年度以降への希望  「4節」の計量経済分析は、通信白書として最初の試みであり、内容的にも提示形式でも改良するべき点が多い。ここでは、後者について次年度以降への希望を書いておきたい。それは計量経済分析が、専門家によって実行・批判されることに関係する。情報通信分野の計量経済分析は、まだ発展途上にあるが、先端分野であることには変わりはない。先端分野の仕事では、データの選択や処理について、研究者の個性が結果に影響する。同じ問題が与えられても、研究者によって答えが異なることが珍しくない。標準的な分析方法が固定すれば、誰でも同じ答えが得られるようになるが、発展途上の分野ではそのようなことは望めない。それぞれの研究成果は、他の専門家によって批判され、改良される。その積み重ねによって、研究が進歩する。他者による批判や追試・改良の途を閉ざせば、研究の進歩は止まり、一般からの信頼も低下する。  上記の理由から、「4節」の提示形式には下記の問題がある。それは、「白書」中の計量経済分析結果について、他の専門家がデータや分析方法をより詳しく知ろうとしても、容易にはわからないようになっていることである。郵政省担当者に聞くことはできるが、それでは手間がかかりすぎる。  この点を補う最も手近な方法は、「4節」の根拠となる作業記録を著者名を明記した報告書あるいは論文等に作成・公表し、これを参考文献・資料として「4節」中に挙げ、参照の便をはかることである。これは専門分野の研究論文では、当然のこととしておこなわれている。「白書」は元来政策当局の現状説明・資料提供を目的としていたので、参照文献を明記する習慣は無かった。しかし、「4節」のような専門分野の分析成果については、参考文献・資料名などの形で、分析担当者名とともに根拠を明示することが望ましい。次年度以降での考慮を希望したい。 1 評者は、本コメントの対象となった白書の部分の一部につき、その作成過程でいくつかの異なる形で関与した。しかしながら、本コメントは、なるべく上記関与から得られた情報を使用せず、第三者である専門家としての立場から執筆するよう心がけた。上記の立場およびコメント内容の当否については、読者の判断に委ねたい。 「『情報通信経済の動向、経済活動と情報通信』について(論評:平成7年度通信白書第1部第2章第3〜4節)」、『郵政研究所月報』(平成7年通信白書特集)、No.83、1995年9月、pp.11-14。