2000年9月18日 千里国際情報事業財団 プリズム21 9月例会報告(講演要旨) <情報産業の経済学―日本経済の回復へ向けて日米比較で考える> 大阪学院大学経済学部教授 鬼木 甫  以下では、まず情報産業とくにソフトウェア生産について日本の問題を考え、他の多くの問題にも共通する要因(文書情報・論理情報の不足)について述べたい。  日本の電子工業の生産高は1999年に約23兆円であった。日本の所得全体のほぼ5%、20分の1を占めている。これ自体は相当なレベルだが、少し別の角度からみると、日本の置かれている立場がよくわかる。それは電子工業製品・サービス、及びソフトウエアの輸出入差(輸出−輸入)だ。ハードウェア製品ではその差が8兆円強ものプラスで、国内生産の半分程度を輸出している。しかし、ソフトウエアでは98年で87億円の輸出に対し、5951億円の輸入と圧倒的な輸入超過である。輸入に比べて輸出はゼロに近いと言ってよく、しかも輸出入差はますます拡大の傾向にある。  これからのIT(情報通信)社会はコンピュータやネットワークがより使いやすくなるのがカギで、その重要部分をソフトウエアが握っている。ここで生産力が低いのは日本の将来にとって極めて望ましくないといえよう。  日本は一体化したものの生産は強いが、デスクトップ型PCや通信ネットワークのような部分・パーツに分けられるものには弱い。ソフトウエアは売られる時はパッケージだが、製品になる過程ではいろんなソフトを組み合わせて作られ、実際は多数の「部品」を組み合わせた製品である。つまり、ソフトウェア生産に日本の弱点が端的に表れている1。  では日本がソフトウエアやシステムの領域で伸びるにはどうしたらよいのか、を考えてみたい。「組み合わせ型製品(ネットワーク型製品)」の生産では、自社だけでなく、海外を含めた他社との連携が有力である。すぐれた他社から「いいとこどり」ができるからだ。しかし多くの日本企業は自社だけで何でもやろうとするから負けてしまう。一体型製品の生産で偉力を発揮した日本企業の活力が、ネットワーク型製品では欠点になってしまうのである。つまり、ネットワーク型製品の生産で伸びるためには、一口でいえば、日本の企業に代表される一体型経営を改良し、米国企業にみられるシステム型、オープン経営方式を取り入れるのが一番よい方法だろう。  しかし、オープン型経営は、口で言うほど簡単ではない。自社内だけのことであれば「社長命令」で片づくが、取引をオープンにすると他社との契約が必要になる。情報分野のように製品・サービスの内容が複雑になると、契約も簡単には済まず、多数の可能性を考えた上で作らなければならない。もし簡単な契約だけで済ませると、何かの原因で取引にトラブルが起きたときに収拾がつかなくなる。  これまで日本企業がオープン型経営を苦手とし、内に閉じこもりがちであったのは、文化的・社会的伝統もあるが、オープン型経営の前提である契約作成が上手にできなかったからではないだろうか。日本の経営者は、取引上の問題解決を、契約よりも取引相手の人がらの相互理解(腹を割って話す)に依存していた。しかし情報産業のように世界中の企業と取り引きする分野では、そんなことではやってゆけない。相手の人がらではなく、問題内容自体に基づく問題解決、つまり契約を含む文書情報に依らなければならない。この面の能力が日本企業で不足しているのである。  翻って考えると、経済活動で文書情報が不足しているのは、企業間取引だけではない。たとえば幅広い労働者の活用の問題だ。労働の移動は日本でもあるが、まだまだ部分的で、終身雇用が広くおこなわれてきた。日米間で仕事の中身自体にそう違いがあるわけではない。日米間の違いのひとつの要因として、仕事の内容が文書形式で定型化されているか、そうでないかの違いがある。米国の場合、マネージャー、エンジニア、アカウンタントなど職務によって、内容が文書ではっきり規定され、新しい人が職場に移ってきても戸惑うことは少ない。日本は引き継ぎが中心で、職場環境に慣れないと仕事が進まない。また仕事内容(たとえば経理勘定方式)が定式化された文書になっておれば、相互比較を通じて標準化でき、よりよいものに改善してゆける。  労働者の側でも同じである。たとえば履歴書の書き方だ。日本は学歴、職歴など10行程度書けばお終い。米国は仕事や資格の記録を詳しく10ページ以上、時には40,50ページもの経歴を提出する。自他の選ぶ第三者(レフェリー)の意見も付け加える。これで本人の能力がわかり、評価もできる。日本では評価が難しい。外部から人を雇用することのリスクが大きいのである。  日本は社会システムとして文書を作る習慣が欠けているところに問題がある。通常の読み書きは優れているのに、日本では仕事上大切な内容を文書にすることを嫌い、直接交渉することが人間的だと思っている。日本人のすぐれた読み書き能力は、感情・感想の表現、会議・調査等の報告、社会全体の事がらに関するマスコミ情報の受容などの点では活用されている。しかし、仕事の最も重要な事項、つまり取引などの他者との交渉では活用されていないのである。ただ一方的に書くだけでなく、論理的に表現したり、ケースを分けて対応したり、多様な内容を何らかの形式にまとめて書き出す能力が不足しているところが弱点だ。  これは前に述べたように、社会全体に、契約能力をはじめとする「システム運営能力」の欠如として大きな影響を及ぼす。前述のように、日本企業の一体型経営では、系列・グループからの部品調達が中心になり、契約は重視されない。他方オープン型経営は外部企業からの調達が多く、契約がないと大変なことになる。仕様の違うものが入って来たりして何か問題が発生した時、対応に苦慮することになる。これまでの日本企業は前者でよかったが、これからはそうはゆかない。  契約書は米国の例でみると1件で300ページ、あるいは500ページといった膨大な量になるが、業種、案件などでそれぞれひな型があり、標準化されている。だから実は見かけほどは恐れることはない。  日本はどうすればよいのだろうか。それは厳しいが、基本的には契約を柱にしたオープン型の経営、取引を含む社内外の仕事の内容を記録し明示する方式に変えていく以外に方法はないだろう。そのためには費用と手間がかかり、相当な苦労がいるけれども、乗り越えなくてはならない。もとより、教育は最も大切だ。子供の時から物事を順序よく(つまり論理的に)表現し、記録し、それによって他者とコミュニケートする訓練が必要である。「自分で考える力」はその中から(つまり順序だてて書くことの中から)自然に生まれる。これまでの教育は、「他者と同調する、社会と情緒的に一体化する」ことが重視されすぎていた。  客観的に物事をとらえ、判断し、それをきちんと書き、他者に伝える習慣をつける。そういう書き方が身について初めて、ビジネスでの複雑な契約の作成や、他者によって作られた契約の理解も可能になる。そのためには訓練を積み重ねることが有用だろう。(保険の約款をわざわざ読みにくい細字で薄く印刷する保険会社などは、一遍でアウトになってしまうだろう。)この種の訓練ができてこそ、国際競争力のあるソフトウエアの開発にも成功する。また複雑な企業経営を合理的に進める途も開けてくる。(現在数多く見られる企業不祥事・医療事故の多くは、当事者の怠惰や直接の対応能力の不足からではなく、多様化・複雑化したシステムの管理能力の不足から生じている。「お詫びと精神訓話と心掛けの一新」だけでは対応できない。それは、「竹やりと大和魂」だけで近代兵器で整備された連合軍に対抗できると考えた戦時中の方式と同じことなのである。)  日本社会はいままで非定型的な情報環境に置かれていた。その状況は、いわば明治維新前の封建システム・幕藩体制下の社会構造にたとえることができる。黒船に遭遇して明治維新に進んだように、革命的な切り換えが必要だ。敗戦の屈辱に耐え忍んで学習と工夫を続けた努力から、戦後のすぐれた製品技術が生み出されたように、プライドを捨てて外に学ぶ姿勢が求められる。日本の旧来の社会・文化のあり方そのものを変えないと、ソフトウエア開発能力の欠如に代表される「論理能力・システム運用能力の不足」は改善されないし、二十一世紀のIT社会で取り残されてしまう。これまでの経験から見ると、日本人は一旦、変えることを決心すれば、意外に早く変革を実現する特技を持っている。これに大いに期待したい。 1 上記の詳しい議論については、鬼木甫、「コンピュータ・半導体:オープン化に弱かった日本」、『日本経済の効率化と回復策−−なぜ日本は米国に遅れたのか』、大蔵省財政金融研究所(現在の同財務総合政策研究所)、「日本経済の効率性と回復策に関する研究会」報告書、第3章、pp.51-94、2000年6月(http://www.osaka-gu.ac.jp/php/oniki/jpn/publication/200006a.html)を参照されたい。