第1章 情報経済学入門 鬼木 甫 2.「情報」とは(?)――人間社会の基本要素 「情報」の定義 情報経済学を考えるにあたり、まず「情報」の意味とその働きを明らかにしたい。最初に「情報」の定義を考える。「情報」は、「物質」、「エネルギー」と並んで、われわれの住む世界を構成する三大要素の一つである。一般に「情報」のような基礎的な概念の定義は難しいので、それが持つ「性質」を列挙することによって定義とする。  「情報」は形式面と作用面から定義できる。形式面からいえば、「情報」とは記号(symbols)あるいは符号(codes, coding)の系列(sequences)である。記号・符号としては、音声、文字、図形、コンピュータ・ビットなどの手段が使われる。特定の記号・符号の系列が何を意味するかは、その系列とは別に、つまりその系列が与えられる以前に、「約束ごと(メタ定義)」として決められている。  次に作用面について述べる。「情報」は、考慮の対象となっている領域(domain)に含まれる要素の存在や要素間の関係、あるいはそれらの変化を「記述」し、あるいはそれらを「制御」する。特定の情報が具体的にどの領域に適用されるか、要素や関係のどんな状態を記述・制御するかについても、その情報の使用に先立ってあらかじめ「約束ごと」として決められている(図1−1)。  しかしこれだけの「定義」では、「情報」が何を指すか分かりにくいかもしれない。もう少し具体的に説明しよう。まず、「情報」は何らかの記号や符号、たとえば漢字・仮名、アルファベット、図形・音声、コンピュータ用ビットなどによって表現される。ここで、与えられた記号や符号が何を表しているかがあらかじめ分かっていなければ、情報は無意味な「呪文」になり、役に立たない。したがって、記号・符号の形で情報が与えられたとき、必ずそれに先立ってそれが何を表すかの約束が明らかになっていなければならない。他方、この約束の作り方を工夫することによって、情報は、複雑な対象を容易に、かつ単純化して表すことができ、また使い方によって強力なパワーを発揮する。その極端な例は、戦争の相手、競争相手等に関する「秘密情報」である*1。  第二に、「情報」は必ず何らかの「具体的な領域内の要素」とかかわりを持ち、それを抽象している。ここで「領域」といっても、それは必ずしも現実世界に実際に存在する地域(たとえば地球上のある地方)などであることを意味しない。それは、現在与えられている「情報」の適用対象であり、実在の世界だけでなく、理論上の概念でも、空想の産物でも、感情や意識でもよいし、またそれ自体が何らかの「情報」であってもよい。ここでのポイントは、「情報」とその「適用対象」との間には、前者が後者を「抽象(記述)」し、後者が前者の「具体」化になっており、あるいは前者によって「制御」されるという双方向の関係が存在することである。この意味では、「情報」の本質は「抽象化」にあるということもできる*2。  「情報」は、何らかの意味で有用な働きを持つ。何の役にも立たない「抽象」は情報とは呼ばない。したがって、「情報」を考えるときには、明示されているか否かは別として、「情報」を使用・利用する「行動主体・作用主体」が存在する。それは人間個人の場合もあるし、個人の集団である組織の場合もあるし、人間ではなく機械や生物の場合もあるし、また生体細胞内の要素の場合もある。別言すれば、「情報は使用・利用されるために存在する」のである。 情報メディアと「体化された(embodied)」情報  情報は形式的に音声、文字、図形、コンピュータ・ビットなどの記号・符号の系列として表現される。実際には、記号・符号の系列を表現するために何らかの物理的手段を使う。たとえば "Read a book." という情報(この場合は命令)を表現するために、この文章を読む(音声で命令を伝える、あるいは手話で表現する)、紙の上にこの文章を書く、ワープロを使ってコンピュータ内のメモリに記録する、など複数の手段が存在する。このように情報を表現するために使用される物理的手段を「メディア(媒体)」と呼ぶ。すなわち「メディア」は、抽象的な情報を人間が理解できるように表現するための手段である。  実際に情報が表現・伝達されるときには、与えられた条件の下で特定の「メディア」が選ばれる。この場合、「メディア」という用語にどこまでの範囲が含まれるかは、一義的には決まらない。たとえば、"Read a book." という「抽象的情報」を紙に手書きするものとする。このとき「手書き文字」は一つのメディアであり、また「手書き文字が書かれている紙」もやはりメディアである。さらにこの紙が封筒に入れられて郵送される場合には、「手紙」「郵便」というメディアが使われる。オリンピックのスポーツ競技を中継する「映像」は一つのメディアであり、その映像がわれわれの手元に届くには、「テレビ」メディアによるか、あるいは「ビデオカセット」メディアによるかの複数の可能性がある。 これらの例から分かるように、一つの「抽象的情報」を表現するために複数の「メディア」が存在し、それらは併列構造・階層構造を持つ。異なるメディアを使用して同一の情報を表現・伝達する場合、その「抽象的内容」自体は変わらない*3。しかしながら、選択されたメディアによって、情報表現・伝達の効率が大きく異なることが多い。つまり、われわれが日常経験からよく知っているように、情報活動においては「抽象的情報」つまり情報の内容だけでなく、それを伝達するためのメディアが、情報内容自体が重要であるのとは別の意味で、重要な役を果たすのである*4。  一般に情報はメディアによって表現されるが、ここで述べた意味の「メディア」以外の手段によって抽象的情報が表現され、具体化される場合がある。たとえば、工業製品の「設計図」は、「紙とそこに描かれた図形・数字」というメディアによって表現された、その製品の生産のための情報である。この設計図を使って、実際に製品が物理的に生産されれば、「設計図」が持っていた「情報」が製品の中に具体化される。他方、ある具体的な「製品」を調べることにより、元の「設計図」情報を少なくともある程度まで推測・再生(リバース・エンジニアリング)することが可能である。このような場合、われわれは元の「設計図」に含まれていた情報が実際の製品に「体化」された(embodied)といい、具体的な製品の中に含まれている「設計図」情報(の一部)を「体化された情報(embodied information)」と呼ぶ。「体化」された情報は、経済価値を持つ情報(知的財産権)の保護をめぐって重要な役を演ずることがある*5。  これと似ているが、人間に「体化」される「抽象的情報」もある。たとえば、「設計図」情報の一部をあるエンジニアが自分の頭の中に記憶している場合には、元の設計図がなくとも、記憶に頼ってある程度の情報再生が可能である。つまり、「設計図」情報が当人に「体化」されているのである。また、実際の経済活動で、「抽象的情報」として表現する(メディアで記述する)ことが困難で、何らかの製品に体化されるか、あるいは人間に体化されることによってのみ存在する情報がある。典型的な例は、仕事の「こつ」「技能」「ノウハウ」などである。*6 情報の広汎な存在  上記の説明から推測されるように、「情報」は広い範囲に存在し、人間生活のあらゆる側面に現れ、作用する。読者は一日の生活を考えることにより、直接・間接に生活にかかわるさまざまな「情報」を挙げることができるだろう。たとえば、朝起きたときに眺める「空模様」は、「その日の天候に関する情報」であり、より詳しい「天候情報」は、新聞やテレビから入手する。家族の「顔色」は、それぞれの健康の「バロメーター」として貴重な情報であろう。サラリーマンは、通勤時間に電車の中で読む新聞や文庫本に加え、街角や電車の広告から情報を入手する。勤務先のオフィスでの仕事の大部分は、文書処理や会議・電話応対などの「情報活動」で占められるだろう。ランチ時の雑談は、仕事以外の情報を入手するための貴重な場である。午後に休暇をとって通った診療所では、自己の健康状態・病状に関する「情報」に加え、診断や処置にかかる「医療情報」を入手するかもしれない。このように述べれば、個人の生活や仕事のあらゆる場面で、無数の「情報活動」が行われていることが分かる。現代人は、ますます多くの時間を情報活動に振り向けるようになっている*7。  「情報」が存在し、作用する場面は、個人の家庭生活、仕事に限らない。社会的に見れば、政治・経済・行政・文化・福祉などの諸活動に情報が伴っており、またマス・メディアには、地域の情報、国の情報、世界全体の情報が渦巻いている。一言でいえば、人間生活はそのほとんどが「情報活動」であり、情報に関係しない生活の側面は、睡眠・休息中を除いて存在しないといってよい。  上記のように、われわれの個人生活・社会活動は情報と深くかかわりあっているが、「情報」が作用している領域は、それらよりもはるかに広い。まず、第3節で述べるように、生物としての人間、あるいは生物全体の存在が、遺伝情報という「設計図」に基づいており、また動物は、頭脳・神経系の感覚・運動情報を駆使して行動している。われわれの日常生活を助けている機械類(たとえば冷蔵庫)も、「情報」に基づいて機能するものが多い(冷蔵庫は、庫内温度という「情報」を探知するセンサーによって冷却機を作動させ、温度を一定に保っている)。コンピュータは、人間の情報活動の「メディア」になっているが、同時に冷蔵庫のような機械類の制御のためにも使われている。 「情報」の働きの認識の歴史  情報は、人間個人と社会、生物、機械類を含む広い分野の存在と活動にかかわり、物質・エネルギーとあわせて世界を構成する三大要素の一つに数えられている。しかし、それにもかかわらず、自然科学や社会・人文科学で情報の作用が明確に認識されたのは、20世紀に入ってから(第一次大戦後)である。本節冒頭に述べたように、情報自体は「抽象的存在」であり、それは「メディア」によって表現されるか、生物・機械に「体化」されて存在する。それぞれのメディア(たとえば言語、文章、文学)の構造や作用について、また情報を体化して保有する生物や機械自体の機能については、理解と研究が進んだ。しかし、それらの背後で作用する「黒幕」である情報についての研究が進み、情報自体を取り扱う技術が発展したのは、今世紀後半に入ってからである。  「情報」という抽象的概念を初めて取り出し、これを組織的に分析したのは、シャノン(C. E. Shannon:米、1916〜)とウィーナー(N. Wiener:米、1894〜1964)である。シャノンは、電信符号や人間の音声を伝える通信回線に「容量(キャパシティ)」が存在し、どんな回線でも雑音等の発生によって容量に限界があることに着目し、「情報量」や「回線容量」などの厳密な概念を確立した*8。パイプの大小によって流れる水量に差が生ずるのと同じように、通信回線容量の大小によって伝送できる情報量が異なるのである。シャノンの貢献のポイントは、電線を流れる電流・電圧のような物理現象を、より抽象的な「情報」の性質としてとらえた点にある*9。  また、同じ時期に、ウィーナーは、動物の運動・生体維持機能と機械の作用の間に「情報による制御」という共通点があることを強調し、これらを統一的に理解するため「サイバネティックス」を提唱した*10。サイバネティクスの意義は、それが動物の行動や機械の機能の双方に共通する「情報」の作用に注意を集中している点にある。  1950年代から、米国を中心に、コンピュータが試作・実用化されはじめた。コンピュータは、当初は科学計算や企業会計・経理計算のための、文字どおりの「数値計算用機械」であった。しかし、それが「0と1のビット情報」という「汎用メディア」を基礎にして作られたことから、一般的な情報処理機械としても利用できることが明らかになり、応用範囲が大幅に拡大した。コンピュータ技術は1960年代以降急速に進歩し、汎用コンピュータ、スーパー・コンピュータが生産され、1980年代中葉以降は、PC(パーソナル・コンピュータ)が低価格で大量に供給され、広汎に使用されるようになった。コンピュータは、「情報」自体を処理する機械であったため、その普及とともに「抽象的情報」の概念も自然に普及し、情報の働きが広く理解されるようになった。  他方、1960年に至り、ワトソン(J. D. Watson:米、1928〜)とクリック(F. H. C. Crick:英、1916〜)は、生物の遺伝子が4種類の記号によって二重らせん形状に「書かれている」ことをつきとめ、遺伝現象すなわち生物の生命現象の情報的基盤を明らかにし、今日の遺伝子工学に続く道を切り開いた(第3節参照)。このころから、多数の現象の背後に「情報」が機能しているという考え方・アプローチが受け入れられるようになり、「情報」「制御」「組織・システム」などへの関心が広がったのである*11。  情報技術の社会経済面への影響、すなわち「情報化」現象について先駆的な議論を展開したのは、わが国の梅棹忠夫である。梅棹は、1960年代前半に早くも「情報文明」「情報産業」などの概念を提示し、「情報化」論議の草分けとなった*12。米国で同様な問題意識を早期に示したのは、マハループ、ド・ソラ・プールなどである*13*14。1980年代以降は、コンピュータの情報処理能力の飛躍的向上と価格の大幅下落によってPCが大衆化し、最近では「通信」との融合によって新たな「インターネット」サービスも供給され、情報技術の社会経済面への影響が一般の関心を呼ぶに至っている。 経済学と情報 他の分野と同じく、経済学(経済理論)も、当初は経済活動の情報的側面を考慮しないで作られた。もとより、現実の経済活動は、ほとんどつねに何らかの情報活動が伴っているが、経済主体の活動(たとえば財・サービスの購入、支払、生産、販売、消費、資本蓄積など)は、情報活動を省略し、物的・経済的結果だけによって記述できる*15。1960年代までに、情報的側面を捨象した経済理論の骨組みが完成した。  経済学の分野では、自然科学のように実験・観察に精緻な技術や用具を必要とすることは少ない。経済現象は、日常の消費活動・ビジネス活動そのものであるため、人間行動が微妙であることや経済活動の多様性から生ずる観察の困難はあっても、経済活動自体は容易に理解・把握できる。他方、経済分野では、技術進歩や社会・政治・国際的枠組みの変動により、「環境変化」が急速であるため、研究課題に事欠くことは少ない。これらの理由から、経済学の研究は、研究者に共通する「経済知識」の抽象化とモデル化という思弁活動、パネルデータ、統計データの収集とその分析というペーパー・ワーク(コンピュータ・ワーク)として遂行でき、その意味で「研究を容易に進める」ことができた。そのため、伝統的な枠組みの経済理論は急速に展開され、「精緻化」されることになった。  他方、ほとんどすべての経済活動に情報が関連していることは自明に近いので、第二次大戦後に「情報」に関する考え方が広まるにつれて、経済分析においても情報的側面を考慮するべきであるとする主張が広まり、1960年代以降、エコノミストの努力がこの目的に向けられることになった。その概略については、第4節以降を参照されたい。「情報経済学」というタイトルを付した最初の論文であるスティグラーの業績以降、さまざまな試みがなされている*16。  しかしながら、情報的側面を考慮した経済理論を作ること、つまり従来の経済理論を「拡張」し、実物面だけでなく情報的要因をも考慮に入れて「統合された」経済モデルを作成することは、困難な作業であることが少しずつ分かってきた。その理由の一つは、経済理論が比較的短期間のうちに情報要因を無視した形で急速に「進化」し、精緻化されたため、モデルを大幅に作り直す(つまり理論進化の道を逆行する)ことなしに、情報的要因を考慮することが困難であったことによる。現時点では、従来の経済理論の一部を生かしながら情報的要因を考慮した理論を作ることができるのか、あるいは従来の経済理論とは全く別個の考え方によらなければならないかが、明らかにされないまま残っている。このことは、第1節で述べたように、「情報経済学」がまだ成立せず、多数の独立の試みがなされていることの理由でもある。  したがって、「情報経済学」の現状は、一方に「経済活動」という広汎な、かつ多様な分析対象を持ち、他方に「情報的要因」という問題意識を抱えながら、進むべき方向を探っている状態にある。理論発展の明確な方向は、まだ見えてこない。そのため、情報経済学を論じるときには、「情報」と「経済」に関係する無数の活動を、どのような切り口でとらえるか、どのようなフィルターで分けるかが問題になる。「情報」にかかわる経済活動・経済現象があまりに多く、また広い範囲に散在するので、これらを包括的に考察することはもとより、単純化して取り扱うことも容易でない。実際には、「問題主導型」の研究、すなわち解決を迫られている現実世界の問題を取り上げ、とりあえずそれを「分析」することを目指す研究や、従来の流れから多数の研究者の注目が集まる課題の研究に、手がつけられることになる。具体的にどのような「切り口」「フィルター」があるかについては、次節以下を参照していただきたい。 3.生物の進化と社会の進歩の情報的側面  本節では、まず「情報的なアプローチ」、「情報的見地からの考察」の重要性・普遍性を示すため、「生物の進化と人間社会の発展の情報的側面」について述べる。ここでの目的は、「情報」というテーマについて専門的な知識を提示するのではなく、すでに広く知られている事項を「情報的な見地から見直す」ことにある。 生物と情報  まず、人間を含む生物全体を考えよう。すべての生物は、「遺伝情報」という情報要因に基づいて形成されている。つまり生物の持つ「生命現象」は、じつはすべて遺伝情報によって支配され、発現していることが知られている。この事実は、ダーウィン(C. Darwin:英、1809〜1882)の進化論やメンデル(G. J. Mendel:オーストリア、1822〜1884)の遺伝実験以来、科学者が予想してきたところだが、実際に「二重らせん」型の遺伝子の存在を示してこれを「実証」したのは、ワトソンとクリックである。  地球上のすべての存在は、生物と無生物に分けることができる。無生物と比較したときの生物の特色は、第一に、生物の個体が他の個体や無生物の世界から明らかな境界によって区別されており、生物個体が集中的にコントロールされていることである。第二に、生物は(近似的な)再生産ができること、つまり生物の世界では「子供」が親に似た形で「生産」され、親から子へ生命が連続して伝えられることである。このような生物の特色は、いずれも生物が持つ「遺伝情報」によって実現されている。  生物の体は「細胞」からできている。細菌のような下等な生物は、1個あるいは少数個の細胞しか持たないが、高等な植物や動物(人間を含む)は、莫大な数の細胞から形成されている。生命現象をコントロールする遺伝情報は、それぞれの細胞の「核」に含まれている。1960年代から発展した遺伝子の研究によって、遺伝情報は、細胞の核の中に「二重らせん」構造を持つ細長い線形の構造体で表されていることが明らかになった。遺伝情報の「素子」は4種類のアミノ酸で、それぞれにACGTの4文字のうちの1個が宛てられている。つまり遺伝情報は、4文字のアルファベットで書かれた長大な「文」である。  すべての生物は、最初は1個の細胞である。その細胞の核には、「親」から受け継いだ遺伝情報が書き込まれている。最初の1個の細胞は、分裂を繰り返して次々に増え、自己の身体を作る。そのとき、遺伝情報は、分裂してできたそれぞれの細胞にコピーされる。4文字アルファベットを使って、誤りなくコピーを作るための巧妙なメカニズムが用意されている。細胞分裂と身体形成の過程は、それぞれの細胞が自己の持つ遺伝情報を読み、そこに書かれた「設計文」にしたがって身体の各部分を形成する過程である。言い換えれば、頭や手足や顔や胴などの身体の各部分を正しく作るために必要な情報は、最初1個の細胞であったときにすべて親から受け継いでいる。容易に想像できるように、人間や他の動植物の身体を作るために必要な情報は莫大な量にのぼる*17。  上記のように、生物の存在自体が「遺伝情報」という情報要因に依存していることに、まず留意されたい。 動物・植物の区別と情報  地球上には、人類を頂点として多種類の生物、すなわち、多数の「種(species)」が存在する。これらの種は、それぞれに特有の遺伝情報によって区別される。もとより、種は、遺伝情報だけでなく、他の情報要因および情報以外の要因によっても区別されるが、ここでは、情報的側面を強調して説明する(図1−2)。  まず、生物は植物と動物に大別される。動物は感覚を持ち、自ら運動することができる。したがって動物は、感覚を司り、運動をコントロールするための「器官」を持っている。そのための器官が「神経」であり、神経の中を信号つまり情報が流れて、たとえば眼や耳からの情報を頭脳に伝え、また頭脳から発せられた情報が筋肉などの運動器官を刺激する。植物にはこのように感覚・運動を司る器官はない。  動物も植物も細胞で構成されている点では同じであり、細胞内の遺伝情報によって生命機能が実現されている点でも同じである。しかし動物では、植物と異なり、特別の器官つまり神経が、「神経細胞」という特別の細胞によって作られ、そこで感覚・運動情報が作られ、伝達されている。すなわち動物は、植物と異なり、遺伝情報とは別に「感覚・運動のための情報」を持っている。神経細胞自体は遺伝情報によって作られるが、できあがった神経が「感覚・運動情報」を司るのである。  植物の情報は遺伝情報だけの「単層構造」になっているのに対し、動物は、遺伝情報と感覚・運動情報という「2層構造」を持っている。この2層構造のおかげで、動物は、植物では実現できないハイレベルの機能を実現している。つまり動物は、感覚器官によって周囲の状況を把握し、そのうえで自己に有利な運動を行う。その結果、動物は植物よりも高級な生命現象を営み、多様かつ大幅な環境の変化に適応して、生命を保存・進化させることができたのである。 脊椎動物には「情報センター」と「情報ハイウェイ」がある  脊椎動物つまり背骨を持つ動物は、動物全体の中でも高等な存在であるが、情報面でも複雑・高級な仕事を行っている。脊椎動物は、海中に住む魚類から始まり、地上に移動して両棲類・爬虫類・鳥類・哺乳類へと進化した。脊椎動物の情報的特色は、多数の神経細胞が集積された頭脳を持ち、そこから出る中枢神経が脊椎を通って体の各部分に行き渡っていることにある。脊椎動物は、まず頭脳という「情報センター」によって、高級な情報処理を行うことができる。頭脳で生成された指令つまり情報は、脊椎内の中枢神経を通って手足や内臓の各器官に伝えられ、またそれぞれの器官の「センサー」は、身体内外の状況に関する情報を頭脳に伝える。脊椎は、身体の骨格を形成すると同時に、身体内の情報伝達の「ハイウェイ」である。  動物の個体は、多数の異なる種類の細胞が各器官を形成し、それらの器官が密接に協力して機能する一つの「有機体」である*18。器官間の情報伝達は、器官の相互協力のための手段であり、個体の維持発展の必須要件である。脊椎動物は、他の動物に比べて器官間の情報伝達手段が発達しており、そのために他の動物よりもすぐれた感覚・運動機能を持つことができ、環境適応能力を高めることができた。 哺乳類は「学習」ができる  哺乳類(けもの)は、脊椎動物の中で最も高級な類である。哺乳類は、他の脊椎動物とくらべて数多くの身体的・生理的特色を持っている。情報的側面から見た哺乳類の特色は、子供がその生後に学習を行い、生まれたときには持っていなかった情報を親から取り入れる点にある。哺乳類以外の脊椎動物は、いわば生み放し、生まれ放しであって、生後直ちに「独り立ち」しなければならない。かれらは脳と中枢神経を持っているが、そこに備えられている情報は、すべて遺伝情報によって生まれたときに親から伝えられている「本能」である*19。  哺乳類には、文字どおり母親からの哺乳期間があり、その期間は「独り立ち」ができない。哺乳類の子供の本能の一部は、哺乳期間に親から情報を受け取るための準備(親から離れず、親に従って行動する、親のマネをする)に向けられている。哺乳類の子供は、この「学習本能」を使い、環境に適応して生きてゆくための情報を親から受け取り、自分のものにする。学習した情報を保存する場所(メモリ・スペース)は、生まれながらに持っているが、そこに入れ込む情報自体は、後天的に獲得するのである*20。  上記の意味で哺乳類は、遺伝情報、中枢神経系、後天的情報から成る3層の情報構造を持っている。3層の情報構造を持つことにより、哺乳類は、環境に適した情報を選択的に学習することができる。哺乳類以外の動物は、すべての情報を生まれる前に親から受け継がなければならないので、いわば「オールラウンド」的な情報しか持つことができず、環境に対する適応力の点で哺乳類に及ばないのである。  最高の哺乳類である人類では、「一人前」に生きてゆくための情報のほとんど全部を生後に獲得する。生まれた直後には、空腹を訴えて泣くことと、母乳を飲むことぐらいしかできない。つまり人間の子供は、生まれたときに持っている情報能力の大部分を、後天的に情報を獲得するための学習能力の形成に向けている*21。  もとより、人類が生まれながらに持っている情報処理能力や記憶容量は、他の哺乳類より高い。つまり、生まれたばかりのスタートライン時点で、人類はすでに「ハードウェア的に」他の哺乳類よりも高い情報処理能力を持っている(図1−3a)。ここで注意していただきたいのは、人類がスタート時に備えている情報能力のうち、後天的な学習のために準備されている部分の比率が、他の哺乳類と比較して相対的に高いことである(図1−3b)*22。 人類は「社会的情報」を持ち、「情報を組織的に交換・蓄積」する  人類は「社会的動物」と呼ばれるが、この観点は、人類を哺乳類の中で情報的にも特色づける。人類は、個人による情報処理自体について、人類以外の哺乳類よりはるかに高い能力を持っている。しかし哺乳類と比較したときの人類の情報面での質的な特色は、第一に、人類が社会を構成し、個人間で情報を交換して相互協力(広義の競争、すなわち競争の結果としての進歩を含む)を実現する点にある。「人間」という言葉自体が、この事実をよく表現している。  人間社会の相互協力は、個人間の情報交換によって実現される。それぞれの個人が異なる立場や背景を持ち、長所を提供し、全体として高水準の活動を実現する。経済分野の相互協力は、「分業」と「協業」である。しかし相互協力は経済活動に限らず、生活・政治・文化など他の分野でも必須の要素である。相互協力、分業・協業によって、人間は、個人が孤立して活動している場合とは比較にならない高水準の成果を手に入れることができた。社会の形成と個人間の情報交換は、相互協力を実現するために不可欠の要因である。  人類を他の哺乳類から情報的に区別する第二の点は、世代の経過による進歩の実現である。人類の情報処理能力・記憶力は、他の哺乳類と比較にならないほど大きい。この能力を駆使して、人類は世代から世代へ情報を伝達・蓄積し、時間の経過とともに利用できる情報の量・内容を増大させた。  情報処理能力・記憶能力を含め、生物の身体的特色は遺伝情報によって決まる。遺伝情報自体が進歩するためには、(基本的にランダムな突然変異と適者生存の過程に依存しなければならないので)きわめて長い時間を必要とする。これと比較して、身体的特色自体の進歩を前提せず、後天的に獲得した情報の蓄積によって実現される進歩は、はるかに短い時間で達成できる*23。現代の人類は、数万年前に地球上に出現したと考えられているが、それ以降、人類はこの後天的情報の蓄積によって「指数曲線的な」進歩を実現することができた。最初に蓄積された情報は、食物の採取・加工の方法、住居の作り方、衣服の入手方法、子供の育て方などであったと考えられる。生活内容を高めるための情報すなわち生活「技術」が、親から子へ、世代から世代へと伝えられることにより、社会の「共有情報」が増大してきた。  このように、哺乳類の中で人類を特色づけるのは、個人間の相互協力を実現する社会的情報の形成と、世代の経過による情報の蓄積であった。人類は、遺伝情報、中枢神経系、個体ごとの後天的情報に「社会的情報・蓄積情報」を加えて、4層の情報構造を持っているのである。 文明社会は「情報メディア」を持つ  人類社会は、未開社会から文明社会へと発展した。今日地球上の人類はおおむね「文明化」され、未開社会はほとんど残っていない。文明社会を未開社会から区別する情報的特色は、「情報メディア(手段)の発明と使用」にある。  人類の情報活動のための最初のメディアは「音声」であった。音声は、当初、同意・拒絶、協力・争い、称賛・叱責など直接の人間関係に使用されたと考えられる。次いで音声を組み合わせて言語を発明し、言語内容を豊富にして、より高級な情報交換と緊密な相互協力を実現した。さらに、音声言語の中に、物の名前(名詞)や行動の指示詞(動詞)が作られ、言語によって周囲の環境を抽象化して示し、また自他の行動を指示することを可能にした。その結果、人間相互間の関係に加え、人間と自然その他の環境とのかかわり合いを音声言語によって表現できるようになった。このような高度の音声言語によって、人間は、環境の理解と利用、そのための個人間の複雑な相互協力を実現した。  次に、音声を記号・図形等によって固定する試みから「文字」が発明され、文字言語が発達することになった。音声言語はその場かぎりで消滅し、語られた内容が聞き手の記憶にとどまる以外には保存手段がない。しかし、文字言語は紙その他の媒体上で保存され、時間の経過、場所の移動を伴う情報伝達を実現する。文字言語によって、時間と場所を共有しないでも情報を他者に伝えることが可能になった。その結果、個人間の協力の可能性が大幅に増大し、また世代の経過による情報蓄積のスピードも急増した。音声言語だけの社会に比べ、文字言語を使用する社会は、はるかに高い発展速度を持つ*24。  文字言語の発明は、単に情報伝達を効率化するだけでなく、人間の「理解力や考える力」を増大させた。情報を文字言語を使った文章の形で書きとめることにより、自己や他者の生産した知識・情報を客観的に観察・理解・批判することが可能になった。また、これを繰り返すことにより、「考える力」が増大した。これらの情報活動はもとより音声言語によっても可能である。しかし、音声言語は特定の場所と時刻のみにしか存在できないので、その場所・時刻での情報交換には有利であるが、複雑な内容の情報交換については効率が落ちる。文字言語の場合、自己の好むときに、好む順序とスピードで繰り返し内容を把握することが可能であり、またそのことによって理解力・洞察力が増大するのである。  文字言語の使用によって人類が獲得した「知識・情報面での広さと深さ」は測り知れない。また文字言語を中心として、社会的規模の「教育」(つまり今日の学校教育)が生まれ、世代間の情報蓄積・増大のスピードがさらに増大した。これらの結果、文字言語を有する文明社会の発展のスピードは、未開社会のそれよりもはるかに高くなった。  読者は文明社会のその後の発展の経過、とりわけその情報的側面を容易に記述できるであろう。文字言語は当初、手書き文字によって表現されたが、木版・石版による印刷が実現し、情報の普及・伝達スピードが増加した。近世に至って活版印刷術の発明から、書物・雑誌・新聞などによる文字情報の伝達が実現し、情報の「大衆化」・マスメディア普及の時代に入った。さらに、今世紀に至り、オフセット印刷術の出現、コピー機の使用、最近のPCやワードプロセッサーの実用化、インターネットなどのネットワークと電子メール・WWWの普及などにより、文字情報による情報活動の発展は一段と加速されている。  他方、音声情報およびその発展形態であるビデオ情報の伝達も急速に発展した。19世紀末から20世紀初頭にかけて、電話・ラジオが発明され、音声情報の伝達に関する空間的制約が克服された。さらに20世紀中葉以降のテレビの実用化、テープレコーダー・ビデオレコーダーの普及によって、音声だけでなく映像を加えた濃密な情報伝達・保存・蓄積が可能になり、今日われわれが享受している情報環境が実現されたのである(図1−4)。 生物の進化と社会の発展  以上、生物の進化と人類社会の発展の歴史を、その情報的側面に重点をおいてたどってきた。これまで述べたことから、社会の基盤の一つが「情報」にあることは疑いない。「情報」は、生物の「種」の進化や人類社会の発展のための十分条件ではないかもしれないが、必要条件であることは確かである。  もとより種の特色は、その情報面だけでなく、他の側面にも表れている。たとえば、「エネルギー獲得と代謝・消費の仕方」という観点から、種の進化と社会の発展を特色づけることができるだろう。また、人類社会だけに限って考えれば、政治・経済・文化・生活・社会など、多数の側面からその発展段階を特色づけることができる。したがって、種の進化や人類社会の発展が情報的観点だけから説明されるわけではない。しかしながら、それぞれの種の進化段階や人類社会の発展段階において、例外なく、情報的側面で(量的だけでなく)質的な進歩が見られることに注意されたい。  上記の観察結果を延長して現在の社会にあてはめれば、今日いわれている「情報化」の意義も明らかである。コンピュータや電子情報技術による「情報化」は、われわれの社会の発展のための必要条件である。「情報化」は十分条件ではないから、それが実現されたからといって、必ずしもわれわれの社会が発展するわけではない。おそらく、他にも発展の必要条件が存在するだろう。しかし社会の発展のために「情報化」は不可欠である。  もとより広義の「情報化」は、今日の時代に特有の現象ではない。人類社会の発展のそれぞれの段階において、さまざまな「情報化」が重要な役を果たした。古代エジプトでの「パピルス」の発明、中国での紙の発明は、今日の文明の基盤である「紙の使用」に直接に続いている。17世紀の活版印刷術の発明は、18世紀以降のヨーロッパ民族国家の台頭、市民革命の実現、資本主義の成長に結びついたのではないだろうか。わが国江戸時代後期の木版本(たとえば読本――よみほん)の普及は、庶民レベルの「寺子屋教育」の結果であり、現在の出版文化のさきがけである。また、後者に続く普通教育は、明治以降のわが国の近代化の基盤になった。今世紀初頭の電話とラジオの普及は、不幸にも戦争という当時の国家目的と相携えたものであったが、それが現代社会に及ぼした影響は否定できない。  わが国では、それぞれの時代の「情報化」の意義が、時代のリーダーだけでなく、庶民レベルにおいても認識されていた。江戸時代後期における「寺子屋」の普及は、江戸や京都の町だけでなく、全国に「読み書きそろばん」を広めた。明治政府の「初等教育」普及に対する熱意は、日本人の「識字率」を世界最高レベルに押し上げ、日本近代化の直接の基盤になった。戦後における中等教育(中学校・高等学校)の普及と、その後の高等教育(大学・大学院)の拡大は、受験戦争という必ずしも望ましくない副産物を伴ったが、現在の日本社会を先進国レベルに引き上げるための重要な要因であった。1960年代に汎用コンピュータが実用化されたときにも、時の通産省の「コンピュータ産業保護政策」は、上記のような「情報化」の重要性の認識に基づくものであった。そしてこれらの伝統は、今日の「情報化」諸政策に対する各界からのサポートに受け継がれている。 NOTES: *1 「情報(information)」の用語は、当初は関心対象の「秘密情報(諜報)」を意味していた。戦時中に「情報中隊」といえば、それはスパイ活動を任務とするグループや、暗号解読担当グループのことであった。現在では「情報」の意味が広がり、必ずしもそれが「秘密」性を持つことを要しなくなった。 *2 通常の意味での「抽象化」は、ある具体的な対象から、「抽象化」によって得られた結果への一方向の関係を示唆する。情報の場合にはこれと異なり、具体的な「適用対象」とその抽象化の結果である「情報」は、双方向の関係を持っている。 *3 ただし、メディアの「変換」に際して、「精度」が落ちることはある。 *4 「メディア」の用語が、新聞・テレビ・雑誌・書物などの「マスメディア」を指すことも多い。「メディア産業」や「メディアのコンテンツ」などの用法がそれである。これに対し、本文の意味、すなわち情報の「表現・伝達手段一般」の意味で使う際には、「メディア」と「メッセージ」の2語を対立させることが多い。この場合の「メッセージ」とは、「メディア」が表現する情報内容、つまりここでいう「抽象的情報」である(ただし単なる記号・符号の系列だけでなく、それが表現している意味内容を含む)。 *5 第6節参照。また、生産技術がメディアで表現されているか、製品に体化されているかは、経済分析における技術進歩の計測法の選択に影響する。 *6 実際、人間社会の発展の過程で最初に作られた情報は「体化された」情報であった。つまり、経験から得られた生活・生産のための技術(食物の調理法、農耕や漁撈の方法など)や、農機具(鋤や鍬など)であった。時代の進展とともに、人間に体化された、たとえば「農耕の方法」という情報が、農業の仕方を説明した書物として「抽象化」されるようになった。つまり、社会経済の発展の情報的側面の一つは、「体化情報」の「メディア化」であったということができる(製鉄工場や自動車工場で、ロボットなどのメカトロニクスが導入されるときの一つのポイントは、「言葉や文字では表すことができない熟練工の微妙な技能」を、どのようにコンピュータに取り込むかであった)。 *7 第7節の議論を参照。 *8 Claude E. Shannon(1949)。 *9 ただし、Shannonの理論には、R. V. L. Hartley(1928)などの先駆的業績があり、前者は後者を発展させたものである。本多(1960)参照。 *10 Norbert Wiener(1947)。Wienerは生物と機械だけでなく、「社会システム」の機能・制御についても情報の存在を考えていた。しかし、社会システムは不規則性が強いため、組織的な分析対象にはなりえないと考え、分析対象から外したとのことである。 *11 生物・機械・社会経済システムの背後に「情報」の働きを見出した上記のプロセスは、自然科学分野で、燃焼・熱・運動・電気などの背後に「エネルギー」の働きを理解するようになったプロセスと似ている。 *12 梅棹(1963)。なお、梅棹(1988、1989)を参照。梅棹によって触発された日本の「情報化論」は、"Joho-ka(Informatization)"という英単語にもなり、1980年代以降諸外国にも広まった。 *13 F. Machlup(1962)。 *14 Ithiel de Sola Pool(1983)。 *15 対価を支払って情報自体を購入する場合は、購入対象である情報が「財」の一種であるとして処理された(本章第6節参照)。 *16 G. Stigler(1961)。 *17 人間の持つ巨大な「遺伝情報」をすべて読み取るため、1980年代に「ヒトゲノム計画」が国際的な研究プロジェクトとしてスタートした。 *18 同じ見方を人間社会にもあてはめることができる。たとえば「日本社会」は、多数の人間によって構成される「有機体」である。個人は、何らかの組織・グループに属し、個人・組織・グループは相互に関連を持ちながら、生活・政治・経済・文化などの諸活動を実現している。「未開社会」の時代には、それぞれの個人が家族や地域共同体内だけで生活し、社会全体たとえば日本全体としてのまとまりは乏しかった。このような時代は、動物でいえば脊椎動物以前の段階に相当する。社会が近代化し、情報手段が発達し、郵便・電話・コンピュータ通信のような高度な情報手段によって社会の各部分が密接に結合されている現代は、動物でいえば頭脳と脊椎を持つ脊椎動物に例えることができる。 *19 ただし、鳥類の一部は、生後に親から若干の情報を受け取る。 *20 この点は、コンピュータのハードウェア・メモリに、ソフトウェアやデータが記憶されることと似ている。 *21 コンピュータに例えれば、人類の情報処理のパターンは、他の哺乳類に比べて、ソフトウェア重視・アプリケーション重視型である。 *22 この点で、生物進化のパターンは、コンピュータの進歩のパターンと似ている。人類はもとより、生物の中で最高の(情報処理用)ハードウェアを持っている。同時に、ソフトウェアとハードウェアの「比率」も、人類において最高である。コンピュータ(たとえば PC、パーソナルコンピュータ)については、最近の Intel Pentium CPU は、直前の Intel 486 の CPU の2倍程度の能力を持っている。他方、486 に対応するオペレーティング・システム(OS)である Windows 3.1 のサイズ(プログラム・ステップ数)と、Pentium に対応する最新の Windows 95 のサイズの比は、4倍程度といわれる。 *23 人間社会における情報蓄積による進歩は、コンピュータ分野では、ソフトウェアのグレードアップによる処理能力の増大に対応する。 *24 音声言語と文字言語の使用度は、時代により、また国・社会によって異なる。たとえば、日本社会、東アジア諸国の社会では、相互協力目的に使用される音声言語と文字言語の相対比率が、欧米諸国よりも高い傾向がある。その結果、前者において、小規模集団内の緊密な協力関係が容易に実現される反面、広域グループ間の協力が不十分になる傾向が見られる。