社会問題: 論考

「自由」 vs. 「愛」: 人類文化を貫く主要矛盾

― 『下流老人』に対する人々の議論を踏まえ、その根底を考える ―

中川 徹 (大阪学院大学 名誉教授、
      クレプス研究所 代表)

TRIZホームページ、論考、
2016年 4月19日 (和文)、4月27日(英文)

掲載:2016. 4.21; 更新: 2016. 4.24; 4.29; 5. 9

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編集ノート (中川 徹、2016年 4月19日)

この論考は、「日本社会の貧困を「見える化」しながら考える」のシリーズにおいて、「[A] 高齢者の貧困化: 藤田孝典著『下流老人』の可視化とまとめ」 の仕事から生まれたものです。特に、前回に掲載しました、「Amazonサイトの『下流老人』カストマーレビュー(82件)の考察」を直接の契機にしています。

Amazonサイトでの『下流老人』に対するカストマーレビューの評価は、賛否に大きく分かれています。それは、著者が同書に書いていたこと:「下流老人など生活困窮者への支援活動に対して、激励のメッセージもあるが、もっと多数の反対意見が寄せられてくる」、に対応するものです。例えば、つぎのような要旨の批判が読者から出されています。

「身勝手な人生を送って貧困になったような人も、当人の責任でなく、社会のせいにしている」
「個人の責任を追及せず、社会が悪いと言っている」
「つつましく生きても意味はなく、放蕩人生のあげく無一文になり国にたかることを当然の権利とする主張。まじめに節約する意味はないのか?恥ずかしくないのか?」
「社会保障へのタカリを薦めており、放置すれば(夕張市のように)国が破たんする」
「福祉は性善説だけでなく、性悪説も考慮しないと、世間は納得しない」
「「誰でも平等なユートピア幻想」の好きな人の本だ」
「事例はリアルだが、解決策は市場経済と民主主義を否定するもので、非リアルである」

これらを含めて82件のカストマーレビューに関して、私自身の意見を書き、要点だけを Amazonサイトに投稿し、詳細記述を本『TRIZホームページ』に掲載しました

その過程で、これらの議論には、もっともっと深い所に考察するべき本質があると、わたしは考えました。前回掲載したページの「編集後記」で私は次のように書きました。

上記のようにカストマーレビューにおける多くの人たちの議論を整理し、学んだことは有益であった。
その上で、今後の課題として、次のようなことを感じている。別途考察を進めるつもりです。

(1) 議論のもっと深くにある、社会的な思想、社会倫理、議論のしかたに関する問題点を明確化するべきこと。

  [ 以下、(2) 〜 (5) 略 ]

今回のページは、この (1) 項に関する考察の第1のものです。それは書き進めていくうちに、非常に大きな、そして重要な論考になりました。
わたしが今書きつつあるテーマの全体のタイトルは、つぎのものです(今回はその最初の部分です)。

「「自由」 vs. 「愛」: 人類文化を貫く主要矛盾と、その解決過程としての人類の文化」 (中川 徹)

読者の皆さんは、きっと唐突に感じられるでしょう。しかし、「自由」は「競争」の世界を生み、「愛」は「助け合い」として現れるのですから、上記の社会福祉のあり方に関する読者の諸議論の根底に関わる概念です。

こんなに大きなテーマで(随想ではなく)論考(論文)を書くことになるとは思ってもみませんでした。私の生涯で記念すべき論考です。日本と世界にとっても記憶されるものであればよいと願っています。これから何回かに渡って書き進めたいと考えています。

2頁だけの要約版PDF   を作りました。「はじめに」 と 「むすび(結論)」 とだけを合わせたたものです。(2016. 5. 9)

目次

0.  はじめに

1.  「自由」と「愛」: 両立するべき矛盾

1.1  「自由と愛」、「競争と助け合い」: 人類の文化の主要な問題
1.2  「自由」が人間の第一原理
1.3  「愛」が人間の第二原理
1.4  「自由」と「愛」の間の矛盾

2.  両立のための根底にある概念: 倫理と基本的人権

2.1  「倫理」: 「自由」と「愛」を動機づけ、「自由」を「愛」で規制する
2.2  「倫理」の普遍性: 「良心」
2.3  「基本的人権」=「倫理」概念の明確化: 「自由」が侵してはいけないこと

3.  「人類文化の主要矛盾」とその構造                [注: この章タイトルを推敲・修正しました (2016. 4.24、中川)]

3.1  「自由」 vs. 「愛」: 人類の文化の「主要矛盾」
3.2  問題をさらに輻輳させる要因: 「人間性の中にある悪」と社会システムの階層

4.  競争と「勝ち負け」

4.1  「競争」は避けられない
4.2  第一原理「自由」は「競争に勝つ」ことを目指す
4.3  「競争に勝つ」ことを目指す文化の問題点
4.4  「勝つ」ための手段を規定する(社会的)「倫理」
4.5  (社会的)倫理としての「公正さ」、「公平さ」、「平等論」

5.  性善説ベースの解決策と性悪説ベースの解決策

5.1  「倫理」の表現における二種の方向: 「性善説」と「性悪説」
5.2   「性善説ベースの解決策」と「性悪説ベースの解決策」の使い分け

6.  むすび

 

本ページの先頭 論文先頭 1. 自由と愛 2. 倫理 3.人間性の悪 4. 競争と勝ち負け 5. 性善説/性悪説

6. むすび

要約版PDF  日本社会の貧困(親ページ) 『下流老人』の可視化 カストマーレビューの考察 英文ページ

 


論考:

「自由」 vs. 「愛」: 人類文化を貫く主要矛盾

― 『下流老人』に対する人々の議論を踏まえ、その根底を考える −

中川 徹 (大阪学院大学 名誉教授)

TRIZホームページ、論考、2016年 4月19日

 

0.  はじめに

本稿は、藤田孝典著『下流老人』(2015)を原典にして、その論旨を「見える化」しながら考えるという仕事から生まれたものです。直接には、Amazon.co.jpサイトに掲載されている、同書に対するカストマーレビュー(読者の書評)82件の議論を考察したことが契機になりました。興味深いことに、多数の読者が星5あるいは星4の高い評価をしている一方、また多数の読者が星1や星2という低い評価をしています。

著者の主張は、「現在高齢者の20%強(約6〜7百万人)が生活保護相当の貧困下にあり、将来の日本の貧困はさらに劇的に悪化するだろう。貧困は、個人の努力にも関わらす、社会システムが引き起こしている。憲法で「健康で文化的な最低限度の生活」を保証しているように、下流老人など生活困窮者を生活保護などで保護するべきである」というものです。

これに対する批判は、「身勝手な人生を送って貧困になったような人も、当人の責任でなく、社会のせいにしている。社会保障へのタカリを薦めており、放置すれば国が破たんする。福祉は性善説だけでなく、性悪説も考慮しないと、世間は納得しない。解決策は市場経済と民主主義を否定するもので、非リアルである。」などです。

わたしは、同書の「見える化」をし、多数の一般読者の書評を検討してコメントを書きました。その過程で、議論の根底の深くに、社会的思想、特に社会倫理に関わる重要な問題があり、それが社会の文化として十分に解明されていず、その結果社会の共通認識が得られていないことに気づきました。それは、競争社会と助け合いに関わること、勝ち負けと自己責任の世界における生活保障・福祉の問題です。これを突き詰めると、「自由」と「愛」という、人類文化における二つの重要な標語に到達します。

本稿は、「自由」と「愛」との間の矛盾が、人類の文化における「主要矛盾」であることを述べます。それは実は、「自由」と「自由」の間の矛盾と、「愛」と「愛」との間の矛盾をも含んでいるのです。また、個人のレベルから、グループや組織のレベル、企業や国のレベルへと、社会構造の階層を上がっていくにつれてより大きな困難な問題を含みます。そして、この「自由」と「愛」との矛盾を解決していこうと努力してきたのが人類の文化であったこと、それがまだ未成熟なのだということを述べます。

 

1.  「自由」と「愛」: 両立するべき矛盾

「はじめに」に書きましたような考察を通じて、わたし自身が理解しましたことを、本稿ではトップダウンに、その結論の体系が明確になるように、述べていきます。

1.1 「自由と愛」、「競争と助け合い」: 人類の文化の主要な問題

一番根底にある問題は、「自由と愛」、「競争と助け合い」、「勝ち負けと協力」、「欲と自制」、「業(ごう)と慈悲」 などの、矛盾しあってかつ両立することが必要な両面の問題であると、わたしは認識しました。いかにすればそれらを、人間社会がきちんとした文化として作り上げ、人々が共通に理解し、社会制度として実現していけるのかが問題であると、わたしは改めて認識しました。

上記に対になる言葉として書いたものは、一見、さまざまに異なることを言っているように見えます。しかし、「それらが根本において、同じことだ、同じ根っ子から違う領域に出てきているさまざまな現象と側面である」、というのが、今回改めて認識したことです。

1.2  「自由」が人間の第一原理

ここでまず現れるのは、そして対になっているうちで第一義であると認識するべきものは、上記の対の中の前者のものです。すなわち、「自由」「競争」「勝ち負け」「欲」「業(ごう)」などです。これらは、生き物としての人間が本来持っていなければならないものです。人間が生存するために、食べ、活動し、性によって子孫を残す。そのために、自分で自由に判断し行動し、他の生き物に勝ち、人間同士の競争にも勝つこと、がまず必要です。それは、生き物である人間としても、あるいは社会のなかにある人間としても、必要なことです。食欲、性欲を始め、物に対する欲、お金に対する欲、権力欲、名声欲、などいろいろあります。これらの能力をつけるために、人は身体を作り、教育を受け、仕事をします。またそれは、人間社会のいろいろな組織においても同様です。企業においても、国においても、物を得、お金を得、人を得、権力を得るために、力を注いでいます。 

しかし、単純な、「自由」「競争」「勝ち負け」「欲」などは、自分勝手な弱肉強食の世界を作り出します。その結果は、他の多数の人にとって、さらには、人間の共同体にとって、迷惑で有害な結果を生むことになります。このように、人間が生き物として本来的に持っている欲求が、望ましくない結果を生む、「悪」の結果を生むことが、明確に認識されたのが、仏教における「業(ごう)」やキリスト教における「原罪」の概念です。そのような認識は、個人レベルだけでなく、人間の組織のレベルにおいても、必要なはずですが、必ずしもよく認識されていません。例えば、企業利益の(むき出しの)追求は害悪を生み出すという認識は少ないですし、人間の金銭欲の追求の総体である市場経済が「見えざる神の手」で導かれているという言説が堂々と提唱されています。 

1.3  「愛」が人間の第二原理

このように、「自由」「競争」などだけでは、望ましい人間社会が作れないことの認識の後に出てきたのが、上記の対の第二項のものです。すなわち、「愛」「助け合い」「協力」「自制」「慈悲」などです。これらの概念は、まず、生き物としての人間の、「自分の子孫を守る」という欲求から生まれてきていると考えられます。自分の子ども、自分の配偶者、自分の家族、そして一族、と拡大して行くわけです。ただ、この段階は、 「愛」も「助け合い」も「協力」も、身内の範囲の事であり、結局は自分に(直接の)利益になるからです。その範囲が、他人、他のグループ、他国、他人種、などに、実際にどこまで普く及ぼせるのかが、問題です。概念としては、キリスト教の「愛」や仏教の「慈悲」が、広く知られ、いろいろに教えられています。ただ、「愛」も「慈悲」も、まず個人の内面の(宗教的)倫理として説かれており、個人レベルの判断と行動に適用されるものです。企業や組織や国のレベルで、この概念が広く認識され、指導原理になっているとは言えません。 

ここまでに書いていることでは、第二原理である「愛」はいつも正しいかのように、誤ることがないかのように見えます。しかし、そうではありません。「愛」は「自分の子孫を守る」ことから出発し、(広い意味での)「自分の身内」「自分の仲間」を「守る」、そのために助けたり、協力したりすることです。その「守る」という意識は、いつも「守るべき対象(者)」を自分の周りに取り込み、一方その外側にあって、自分たちに対抗する者、自分たちに危害を加えそうな者、外から攻めてくる者(すなわち、端的には「敵」)に対して対抗すること、を含意しています。それは、(自分たちが意識する)「身内」に対しては、愛情、助け、協力を与えるけれども、その外側に対しては、対抗心、非協力、敵意を示すことになります。置かれた状況が厳しくなればなるほど、「身内」と「外部」との間の「壁」(「防護壁」)を明確・強固にし、「外部」からの攻撃に対して防御する。さらに、防御の一つのやり方として、「外部」に対して攻撃することが、起こってきます。このように、第二原理の「愛」には、「愛する対象の範囲」(すなわち「身内」という意識や組織の範囲)が問題になり、その範囲の外側に対しては、「愛」がなかなか及ばず、往々にして「愛」とは逆の心理と振舞い(対抗心、敵意など)が適用されるということが起こります。これが、人類の文化にさらに複雑な問題を引き起こす矛盾の根源です。

1.4  「自由」と「愛」の間の矛盾

さらに問題は、「自由」(およびその他第一項)を第一原理とし、「愛」(およびその他の第二項)を第二原理とするとは、どのようにすることなのか?という問題です。単純に、「場合によって使い分けるのだ」というのでは、あまり明確になりません。どんな場合に、どのように使い分けるのか、その場合わけの判断をどのようにするのか、などを説明する必要があります。お母さんが子どもに説明するときには「自分がされたらいやだと思うことは、他の人にしてはいけませんよ」というでしょう。第一原理の「自由」を行使せずに(自制して)、第二原理の「愛」の行動を行うことです。これを、個人の行動としても、企業活動でも、国の行動でも、適切に行うことが、人間の文化の理想のはずですが、実際には、「自由」「競争」「勝ち負け」「欲」「業(ごう)」などが主導しており、それらを使って「勝った」方が何事にも利益を得、羽振りをきかせているわけです。

 

2.  両立のための根底にある概念: 倫理と基本的人権

上記の両者を調整する(あるいは矛盾のまま両立させる)ための根底にある概念は何だろうかと考えてみました。

2.1  「倫理」: 「自由」と「愛」を動機づけ、「自由」を「愛」で規制する

その概念として最も適当だと思われるのは、「倫理」(もっと平たい言葉で言えば、「人の道」、「良心」)であろうと思います。それは、きっと生き物としての人類がそのDNAの中に形成してきただろうものであり、どんな人類社会でも(その後の種々の文化的な変容を除けば)共通に持っているだろうものです。

まず自ら生きること、そのために、健康な体を作り、学び、考え、働き、工夫し、いろいろなものをよりよくしていくこと。そして、子を愛し、親を愛し、伴侶を愛し、家族や周りの人たちと協力していくこと。これらのことは、前項で書いた第一原理(「自由」など) および第二原理(「愛」など)の基本のことをそれぞれ言っていて、なぜそのようなこと(倫理的な項目)が必要なのかは、特別な議論をしなくても、人類共通であると理解してよいでしょう。

さらにそのつぎに出てきていると考えられるのは、例えばモーゼの十戒中の「殺すな」「姦淫するな」「盗むな」「偽証するな」などの項目です。これらは、宗教的というよりも倫理に関わるものであり、人と人との関係について述べています。それは親子関係よりも外側にある人との関係について述べています。

その本質は、人の自分勝手な行動(自分が生きるために、自分が有利になるために、自分にとっては都合がよい行動) に対して規制をかける (禁止する、抑制する) ことです。なぜ規制を掛けるのかと言えば、それが相手にとって重大な害になるからです。相手に重大な害を与える行動を許す (勝手にさせる) と人間の社会 (そのサイズは、家族、集落、町、国、世界などいろいろです) 全体にとって、大きなマイナスになることを、人類は学んできている (経験してきている) からです。

このような自分勝手な行動は、人類が学んできた第二原理 (「愛」の原理) に反するという言い方をすることもできます。「愛」の原理に反するような、(「自由」の原理に基づく) 自分勝手な行動を規制することが、これらの倫理の本質と考えられます。すなわち、倫理の本質は、「自由」の原理を第一原理とするのだけれども、その第一原理の適用範囲 (許容範囲) を第二原理である「愛」の原理で規制することです。これが必要なのだというのが、人類が学び、(おそらくすでにDNAの中に〉共通に持っている認識です。

2.2 「倫理」の普遍性: 「良心」

なお、ここで、世界の状況や自分の周りの社会を見れば、そんな「倫理」など共通認識になっていないではないか、という反論があるでしょう。それは、人類の社会や文化がまだ未成熟だから、この「倫理」が通用し実体化されている範囲が限られているのだ、ということです。どんな国や地方や部族にあっても、その最小単位の社会 (親族、部族、集落など) の中で、これらの「倫理」とまったく違うことが共通の規範になっている所はないだろうと思います。

「倫理」の普遍性を一番分かりやすい言葉で言うと、「あなたにも良心があるでしょう。良心に従って、良心に恥じないように行動しなさい」ということでしょう。そのような「良心」が本当に天性のものであるか、あるいは後天性の、社会的な教育によるものであるかは、議論の余地があるでしょう。それでも、「良心のかけらもない人」であってもその人の内奥にやはり良心があるのだろうと、わたしは思います。

2.3 「基本的人権」=「倫理」概念の明確化: 「自由」が侵してはいけないこと

ここに述べた「他者に害を与える行動を規制する」という意味で、「倫理」よりももっと明確にした概念が、「基本的人権を守る」ということだと考えられます。この概念は、「倫理」や宗教に比べればずっと新しい概念であり、法律的な用語だけれども、人類文化が獲得した基本概念の一つであると思います。基本的人権を基礎づけるのは「自然法である」というのは、私がここで言っていることと同じことと思います。

「基本的人権」にもいろいろありますが、ここで議論しています「下流老人」(あるいは「日本社会の貧困」)の文脈で言えば、「社会権」と呼ばれるものが重要でしょう。すなわち、日本国憲法では、生存権(「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」)、教育を受ける権利、勤労の権利(とその義務)などを規定しています。これらの権利は本来的に人に備わっているものであり、他者(国家権力なども含む)が侵してはいけない、と規定しているわけです。その意味で「自由」という第一原理の振舞いに規制を掛けているわけです。

 

3.  「人類文化の主要矛盾」とその構造           [注: この章タイトルを推敲・修正しました (2016. 4.24、中川)]

 

3.1 「自由」 vs. 「愛」: 人類の文化の「主要矛盾」

ここで、今まで述べたことを一旦まとめておきましょう。

人類の文化の第一原理である「自由」は、人間が生き物として生きるための要求から発していて、自分で判断し、行動し、(いろいろな)競争に勝つようにするための、指導原理です。それは積極的に追い求めるべき原理であり、方向です。ただ、むき出しの「自由」の追求は、他者の「自由」の追求と衝突し、(互いの生存を危うくするなどの)危険を引き起こすので、その調整が必要です。

その調整のために、人類の文化の第二原理として、「愛」が見出されてきました。「愛」はもともとは、自分の子孫を残すために自分の子どもを守るという生き物としての本性から生じています。守るべきものが、家族、集落、部族 (そして、さらには国など)と次第に拡大して認識されていきます。「愛」はそのような守るべき者たち(「身内」)の範囲の内側では、自制・援助・奉仕・協力・献身・自己犠牲などの形で現れ、その構成員たちの「自由」を調整し、その(「身内」)全体にとっての「自由」を向上・拡大させます。ただし、それは、「守るべき者たち」(すなわち「身内」)の範囲を明確にし、その外側にある者たちとの間に対抗関係(さらには、敵対関係)を作り出す面があります。すなわち、その範囲からなる(明確な、あるいは不明確な)組織を(「自由」を持つ)一つの活動主体と考えると、その組織レベルで再び「自由」を持つ者同士の葛藤・衝突を引き起こすことになるのです。

これらの「自由」と「愛」をも含んで、全体を調整するための概念(指導原理)は、「倫理」(「人の道」)であると思われます。それは、最も平易には「自分がされたらいやだと思うことを、他の人にしてはいけない」といったことです。それは、「良心」として人類のDNA中に埋め込まれていると思われますが、(だからこそ)内容を明確に言うことは容易でありません。漠然としていますが、それでも人類共通に理解されるものであろうと思います。「倫理」がより明確になったものが、(「自然法」に基づくと考えられている)「基本的人権」の概念です。

以上が、人類の文化のさまざまな大きな問題の根底にある諸理念の枠組みを示したものです。それは、「自由」と「愛」という二つの大きな目標と、それら自身およびその二つの関係の中にある問題を示しています。これを私は、「自由」 vs. 「愛」 が、人類の文化の「主要矛盾」である と考えました。人類の文化には、個人レベルのものから、集落、さらには企業などの組織、高度に発展した社会、そして国など、さまざまな社会システムの階層がありますし、何千年にもわたる、また地域ごとの、歴史があります。それらすべてを貫いてきた主要な課題・問題が、この「自由」 vs. 「愛」という問題・矛盾であり、それこそを「人類文化の主要矛盾」と名付けたのです。

3.2  問題をさらに輻輳させる要因: 「人間性の中にある悪」と社会システムの階層

以上の記述よりもさらに問題を輻輳させているのは、人間がこれらのさまざまな指導原理に従わずに、いろいろな形で自己の利害のために(すなわち、「自由」を主張して)行動することです。上記のように、「自由」にも「愛」にも問題(矛盾)が内在し、両者の関係にも問題(矛盾)が存在しますが、それ以上に「人間性の中にある悪」が問題を大きく、複雑にしているのです。そして、そのような矛盾と悪とを含んださまざまな出来事が、地域や組織のそれぞれで、多様で膨大な歴史の積み重ねを持っているのです。

「人間性の中にある悪」という点を明確に認識したのは、釈迦が開いた仏教における「欲と業(ごう)」の概念と、イエスによるキリスト教の「罪(原罪)」の概念です。釈迦は、人間の欲望(食欲、財欲、色欲、名誉欲、睡眠欲など)に際限がなく、それに突き動かされている人間の行動がこの世の中を醜いものにしている、として、欲望から離脱する道を説きました。イエスは、人間の本性の中に(神を見失い)利己のために互いを傷つける性質(「原罪」)を見、(神の赦しを信じて)人を愛することを説きました。このように、人間の本性に存在する「根源的な悪」を認識し、それからの離脱や赦しによって、「清い心、慈しみと愛の心」に至ろうとするのが、宗教思想の中核のひとつである、宗教の「倫理的な側面」といえるでしょう。

この「人間性の中にある悪」は、単に個人レベルだけでなく、社会システムのすべての階層・レベルで顔を出します。例えば、企業はその企業競争の中でいろいろな策略を使い勝ち抜こうとします。その企業を経営・主導している人間が、その利己的な欲求から企業に人間性に悖る行動を起こさせている、という見方もできます。しかし、企業自体を行動の主体とみる方が、問題をより客観化してみることができるでしょう。「人間性の中の悪」と同じ性質のものが、「企業の性格の中の悪」、あるいは、「国という組織の性格の中の悪」などとして、いろいろなところに現れているのです。

 

4.  競争と「勝ち負け」

4.1 「競争」は避けられない

人間の生存の場において、「競争」は避けて通ることができず、それはさらに(広い意味での)「戦い」にまで激化することが多く、「勝ち/負け」の結果を生じます。競争が避けられないのは、端的には環境中の資源が(要求/需要に対して)有限であり、不足しているからです。食糧が限られている、住むのに適した場所が限られている、仕事の場(機会)が限られている、結婚したい相手が限られている、などです。また、各人が(あるいは集合体としての各組織が)、「よりよいもの」を「より多く」求める(需要する)からです。

また、そんなに大上段にいわなくても、人は、非常にさまざまな「競争」や「戦い」の場に、ときには思いもよらずに遭遇しています。例えば、ちょっとした気遣いで、相手の好意を獲得するのも競争の場の一つでしょう。ふとしたことをヒントにして新しい商品のアイデアを思いつくのは、「競争」の場での有利なスタートを与えます。足を滑らせて川に落ちたときに、泳いで助かるのか/溺れるのかは、その人にとっては自然を相手にした戦いの場です。

4.2  第一原理「自由」は「競争に勝つ」ことを目指す

このときに、第一の指導原理である「自由」は、積極的に、この「競争に勝つ」、「戦いに勝つ」ことを目指します。「競争に勝つ」「戦いに勝つ」ことを追求し、その結果として、自分の要求するもの(要求する「よりよいもの」、要求する「より多くのもの」)を獲得することを目指します。それが生きる道、生き残る道であると考えからです。「競争に負ける」、「戦いに負ける」ことは、自分が要求するもの(欲するもの)が得られないことであり、よりよいものが得られない(欲したものより悪いものしか得られない)、より多くが得られない(欲したよりも少なくしか得られない)、あるいは、自分のものを失う、さらには、自分が傷を負い、自分の命をも失う、といった結果に至る、からです。

ですから、人は、さまざまな「競争」や「戦い」に備えて、それらの場で「勝つ」ように、準備をしていくわけです。身体を健康に作ることも、しつけを受け、言葉を学び、教育を受け、技術を身につけることも、あるいは身だしなみを整えることも、すべてそのような準備といえます。生活習慣を作り、勤勉で、誠実で、よい人柄であることなども、すべて、(広い意味での)「競争」や「戦い」に「勝つ」ことを目的にしている、といえるのです。それが、人類の第一原理である「自由」をベースにした、人間の生き方(「倫理」)の基本であり、精一杯努力するべきことです。

4.3  「競争に勝つ」ことを目指す文化の問題点

しかしその結果として、この「勝つ」ことを目標にした生き方は、「負ける」こと/「負けた人」に関しては冷たい、のです。「負けるのは弱い(力が足りない)からだ」、「負けたのは努力しなかったからだ/よく考えなかったからだ」、「負けたのは、負けた者の責任だ」、「自業自得だ」ということになります。負けた者に対するこのような批判は、「次の機会には、勝てるように頑張れ/頑張ろう」という意味で、プラスに評価されることがあります。しかしそれと同時に、負けた者を蔑視することを含んでいることも多くあります。そこには負けた者に対して何らかの救済を積極的に施す意思は見られません。また、負けた者自身も自分に対して、このような二面的な評価を持つことが多くあります。このようにして、「勝つこと」がよいことだと、奨励・優先する文化においては、「負けた者」に対する救済の観点は弱くなる、のが普通です。  

この「自由」を指導原理とし、「勝つこと」を目指す生き方(「倫理」)でのもう一つの問題点は、「勝つ」という結果だけを重視して、そこに至る過程を問題にしないことです。どんな過程をとっても結果がよいほうがよいとする、だから、過程のよしあしにこだわって最終的に勝つことができないならよくないとする、ことです。この考え方がが強調されると、熾烈な競争・戦いの場になり、弱肉強食の世界、ギスギスした世界になります。この問題も社会システムのいろいろなレベルで考えていかねばなりません。

なお、本来、人(や人の組織)が達成・追及するべき「価値」にはいろいろな側面があります。そして、そのうちのある一つの側面を強調して、それを「目標」・「指標」とした競争に注力すると、そこで勝つためには他の側面を犠牲にする(注力しない)という状況が起こります。それでもよい場合もありますし、全体として望ましい結果にならない場合もあります。このような、「価値の多面性」とバランスの問題は、見逃されることが多いですから、注意が必要です

4.4 「勝つ」ための手段を規定する(社会的)「倫理」

さらに大きな問題は、「勝つ」ためにいろいろな手段が取られ、それらが多くの不幸な状況を生み出すことです。どんな手段を取るべきか/取ってはいけないかを、根本のレベルで言及・規定するのは、前述のように「倫理」です。「親切」「正直」「勤勉」「節約」などであり、また、「殺すな」「姦淫するな」「盗むな」「偽証するな」「搾取するな」などです。それらは主として個人レベルでの指針です。

関与する人や組織が大きくなっていって、企業などの組織レベルでの競争・争い、さらに国レベルでの競争・戦いなどになると、問題が複雑になります。「倫理」に明確に反するような、望ましくないはずの手段が実際に大規模に使われており、それが法律や権力のもとに正当化されることが、しばしばあります。企業のレベルで言えば、長時間労働の強要、低賃金・非正規雇用の中での大規模な内部留保の拡大、などがその例です。国のレベルでは、戦争における殺人行為(特に、空爆などによる大規模な民間人の殺戮)がその典型例です。

取り得る手段の適正さを判断するための指針・指標にどんなものがあるでしょうか?現在での一つの答えは、「法律」(憲法から条例まで含めた広い意味で)と「国際法」(条約なども含めて)でしょう。しかし、法律(や条約)に違反していなければ何をしてもよいということではないし、法律や条約自体をどのように改良していくのかが問題です。すると、「法律」よりも深いところで、個人レベルよりも上の社会システム(組織や国など)のレベルで有効な指針が欲しいことになります。それはやはり(社会的なレベルでの)「倫理」というべきでしょう。

社会的なレベルでの「倫理」としては、「基本的人権を守ること」と、「公正さ」とが考えられます。基本的人権はすべての人が持つ侵されてはならない権利であり、(各個人はもちろん)社会的な組織のすべてがこれを尊重するように構成され、その活動の指針とするべきものです。

4.5 (社会的)倫理としての「公正さ」、「公平さ」、「平等論」

一方、「公正さ」は、社会的組織がいろいろな活動をするときに、各個人に対して、また諸組織に対して、公正な振舞いをするべきことを述べています。そのベースは、すべての人が普く平等に基本的人権をもっているという認識であり、不当に差別されてはならないという認識です。この点では、「公正さ」はその背後に「公平さ」を含んでいるというべきかもしれません。「公正さ」は、「公平さ」の概念を乗り超えて、「正しさ」(公に正々堂々と主張できる正しさ、えこひいきや特定の立場からの主張でない正しさ)の概念を含んでいます。それは社会的ないろいろな批判に耐えうる正しさを意味します。ただ、その「公正さ」をどのようにしたら保証できるのかと考えると、あまり明確な答えはできません。例えば裁判官の判断の公正さを保証しようとすると、(個別の判断の公正さを事後に評価することはできても、事前に一般的にいうと)「裁判官の「良心」に従って」といったことになってしまうでしょう。

ここでもう一つ議論しておかないといけないのは、「公平さ」と「平等論」についてです。「基本的人権」はすべての人が生まれながらにして等しく持つ権利であり、誰もそれを侵してはならないと考えられています。また、何人も法の前に平等である、と(憲法で)規定されています。このような規定はすべての人に対して同じ、すなわち、一律の処遇をすることを意味しているでしょうか?例えば、教育を受ける権利については、憲法26条は、「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する」と定めています。これは、教育を受ける権利はすべての人にあり、その教育の中身ややり方はその人の能力に応じて違うものであってよい、と理解されます。すべての人に同じ内容や同じレベルの教育を行うことを想定しているわけではありません。そのように、違う内容(分野)や違うレベルであるにしても、すべての人が教育を受ける権利がある(条文中の「ひとしく」は権利を「有する」に掛かっている)と理解されます。

「平等論」はときとして、「画一論」になることがあります。同じ職場で、同じ時間、同じ仕事をした人には、同一賃金を払う、などです。仕事をてきぱきとやって、より多くの製品を製作・処理している人が、その能率性を評価されないという不満が生じます。同じ職場で、グループで作業していて、各人の寄与程度が定量化できない場合に、メンバーに同一賃金を払う、という場合もあります。グループ作業の円滑化に常に気を配り、他のメンバーをサポートしながら仕事をしている人を、賃金面で報いることができていない、といえます。これらの例は、「平等」な賃金にしているが、高生産性のメンバーやグループ作業の円滑化に寄与しているメンバーなどをプラスに処遇していないので、(長期的には)それらの人々の意欲を削ぐ結果になる恐れがあります。「平等」な賃金だけではなく、積極的な評価をなんらかの形に表すことが望ましいでしょう。そのような追加の評価を含めたものが初めて、「公平な」(さらには「公正な」)評価であるといえるでしょう。

 

5.  性善説ベースの解決策と性悪説ベースの解決策

5.1  「倫理」の表現における二種の方向: 「性善説」と「性悪説」

今まで見てきたように、人類文化が獲得してきた「倫理」は、人間のあるべき方向を述べているものです。その中には、「勤勉であれ」「正直であれ」「人に優しく」などのように、肯定的に方向を示しているものが沢山あります。また一方で、「殺すな」「盗むな」などのような言い方で、悪い・望ましくない行動を禁止し、自制させる方向での指示になっているものも沢山あります。この前者は人の性質は本来的に善いものだ、善くあり得るものだという考え方での表現ですから、ここでは「性善説ベースの指示/解決策」と呼びましょう。一方、後者は、人の性質が本来的に、利己的で他者に害を与える危険があるものだ/その危険を防御しなければならないという考え方の表現であり、ここでは「性悪説ベースの指示/解決策」と呼びましょう。

5.2  「性善説ベースの解決策」と「性悪説ベースの解決策」の使い分け

注意するべきは、単純に「性善説」だけを信じてそれで生活している人は(恐らく)いないし、また単純に「性悪説」だけを信じてそれで生活している人も(恐らく)いないことです。すべての個人も、企業や官庁などの組織も、国も、「性善説」と「性悪説」をそれぞれ適当なバランスで使い分けて、さまざまな準備をし、判断・行動をしているのです。この意味で、単純に「性善説」がよいか「性悪説」がよいかという、議論の設定をするべきではありません。それらをどのように使い分けるのがよいか?が問題なのです。

第一のやり方は、「性善説ベースの解決策を主(第一義)とし、性悪説ベースの解決策を従(例外的処理)として補助的に使う」というやり方です。すなわち、「大部分の人たちは善意の人たちだから積極的に支援・協力し、特別に、悪意をもって振舞っていると判断される人/ことに出会った時には、用意していた例外的な対処のしかたをする」という対処法です。基本的にこのやり方が望ましい。それは、大部分の人たちが「自由」を追求するのに正しい/望ましいやり方をしているものだと想定していて、大部分の人たちの「自由」を求める行動とエネルギーを是認・奨励しているからです。例外的な人、すなわち「自由」を不適切に使っている人の割合は少ないから、例外処理で対応できる/間に合うと考えられるからです。

第二のやり方は、上記と逆で、「性悪説ベースの解決策を主(第一義)とし、性善説ベースの解決策を従(例外処理)として補助的に使う」という方法です。多くの人たちをまず疑ってかかり、防御的な処理を基本とします。そして、善意の人だと分かったときだけ、別に用意していた好意的な処理をするのです。この方法が適当なのは、実際に、大部分の人が疑わしい場合でしょう。あるいは、疑わしい人を見逃すと大きな危険がある場合(例えば、空港での危険物持ち込み制限のチェックの場合など)でしょう。それ以外の普通のときにこの「性悪説ベースの解決策を主とする方法」を適用すると、人間関係が崩れたり、非能率であったり、するでしょう。

 

6.  むすび

この論考はさらに続くのですが、本稿で述べたことを整理して、一つの区切りにします。

(1)  人類の文化は、「自由」を第一原理とし、その伸長を主要目標とします。各人が、自分で判断し、行動し、「生きる」ことです。
「自由」は、(自然的、社会的な)「競争」に「勝つ」ことを目指します。一人の「自由」と他者の「自由」とは、必然的に衝突します(矛盾します)。

(2)  人類の文化は、「愛」を第二原理とし、その普遍化を主要目標とします。各人が、その子を愛し、家族を愛して、「助ける、守る」ことです。
「愛」は、「自由」を自制して、「自由」同士の衝突を無くすことを目指します。「愛」は、自分の周りの「身内」を助け・守るために、「外」からの攻撃に対抗する性質があります。それは、「身内」を一つの社会的主体と考えると、一つ上のレベルでの「自由」と「競争」を出現させます。

(3)  人類の文化は、「自由」と「愛」という、しばしば対立する(矛盾する)二つの原理を、どのように両立させ、使い分けつつ発展させていくかを、問い続けてきました。「自由」 vs. 「愛」 を、本稿で、「人類文化の主要矛盾」と名付けました。

(4)  この「自由」と「愛」との両方を包含して動機づけ、その間の調整を行う指針として人類文化が獲得してきたのは、「倫理」でしょう。平たく言えば、「人の道」、「良心」です。「倫理」の根幹部はすでにDNAに埋め込まれていると考えられますが、当たり前すぎて、明示することが難しい面があります。「基本的人権」の概念は、この「倫理」が明確化されたものといえます。

(5)  人類は、その文化の歴史の全体を通して、この「自由」 と 「愛」 という「主要原理」の伸展と、「自由」 vs. 「愛」という「主要矛盾」の解決に取り組んできたといえます。その中で、いろいろな社会システムが作られ、文化が発展してきました。ただ、「主要矛盾の解決」という問題は一層複雑化し、困難を生じている面があります。

(6)  困難の原因の第一は、社会システムが多数で、多層で、大規模で、相互に複雑に絡み合っていて、各社会システムにおける、「自由」「愛」「倫理」のあり方を明確化し、世界的に理解することができていないことです。原因の第二は、それらのあり方が明確にされ、(社会的な)「倫理」が明確にされても、多くの個人や社会組織が自己の利害(「自由」)を主張して、「倫理」に反する行動をとり、それが社会的「勝者」になることです。そして、そのような行動や組織が、(小さいものから大きなものまで)世界中の至る所にあり、それらが歴史的な積み重ねを持っていることです。

(7)  以上のように、本稿は、人類の文化の根底にある「主要原理」と「主要矛盾」という概念を見出し、その骨格を描き出しました。

今後さらに、基本的ないくつかのレベルの社会システムについて、そこでの「自由」と「愛」と「倫理」の実情と理念を考察していきたいと考えています。

それが、当初から取り上げていた、社会の貧困の問題と、福祉の考え方を明確にし、社会を改革するための指針を明確にすることにつながると考えています。

 


編集後記 (中川 徹、2016. 4.20; 5. 9)

本稿は「論考(論文)」といいながら、参考文献を一切挙げていません。私自身がいままでに学んできた多くのものをベースにしています。一つ一つの項目は、きっといままで無数の人たちが考えて、書いてきていることと思います。各項目を取り上げると、私の論旨の不十分なことも一杯あるでしょう。

それでも、このような全体像・骨格は、私が独自に考え、独自に記述したものです。その意味で、「論考(論文)」として掲載いたします。

ご意見、ご感想、ご助言をいただけますと幸いです。

2頁だけの要約版PDF   を作りました。0. はじめに、と 6. むすび(結論) とだけを取り出し、本体の説明部分を割愛したものです。(2016. 5. 9)

 

本ページの先頭 論文先頭 1. 自由と愛 2. 倫理 3.人間性の悪 4. 競争と勝ち負け 5. 性善説/性悪説

6. むすび

要約版PDF  日本社会の貧困(親ページ) 『下流老人』の可視化 カストマーレビューの考察 英文ページ

 

総合目次  (A) Editorial (B) 参考文献・関連文献 リンク集 ニュース・活動 ソ フトツール (C) 論文・技術報告・解説 教材・講義ノート     (D) フォーラム Generla Index 
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最終更新日 : 2016. 4.29   連絡先: 中川 徹  nakagawa@ogu.ac.jp